泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

有名だけれど有名でない偉人について

 さる1月29日に亡くなられた廣瀬明彦さんは、知的障害者支援の世界ではよく知られた人であった、と思う。他の障害分野や福祉全般の中ではどうかわからないが、特に知的障害者の地域生活支援と呼ばれる世界では全国的によく知られていたはずだ。
 それでも、世間の人たちはほとんどその名を知らないだろう。目立つことが好きな方でもなかったし、講演などは引き受けても、マスメディアなどに出演されることはなかった。ここに一度だけ、彼のことを書かせてほしい。
 自分が彼と出会ったのは学生の頃であった。たぶん彼は当時40代半ばぐらいで、すでに業界のトップランナーのひとりだった。学生ボランティアグループの長に過ぎなかった自分にも深々と頭を下げて敬語で挨拶される方で、これほど腰の低いトップがいるのだろうかと思ったものである。
 高校在学中、1年間休学して障害児入所施設で用務員として住み込みで勤務した彼は、週に1度の休日、外出時に子どもたちが「ええなあ、わたしらお盆とお正月しか家に帰れへんのに…」とつぶやく言葉を聞いていたという。その後、知的障害者の入所施設や通所授産施設等でも働くが「自分はこのような場所で暮らしたいだろうか?」と疑問を感じ、20代の半ばに施設を辞め、従来の施設を反面教師とした支援の場を地域の中で作ろうと志す。そして、京都府障害福祉課を訪ねて、こう聞いたのだと言う。「府内で障害者福祉の最も遅れている地域はどこですか?」と。それが府の最南端にある相楽郡だった。障害をもつ人たちのための資源など何ひとつなかった。入所施設すらなかった。
 そこに移り住んだ彼は、学齢児の子どもの家を一軒ずつまわりながら、共同作業所づくりを目指した。が、場所ひとつ見つけるのさえも容易ではなかった。数年が経ち、一時は自身が生活保護(医療扶助)まで受けながら、もう限界かと感じつつあったとき、ついに土地を無償で提供してくれる人が見つかり、1981年から無認可共同作業所としての実践がはじまる。夕方からは古紙回収、夜には陶芸教室をして、懸命に収入を確保しながら、地域の応援を集めていった。
 作業所をはじめるにあたり、2つの方針を掲げた。ひとつは「入所施設に送らない」。もうひとつは「ニーズには誠実に応える」。
 「ニーズに誠実に応える」とは、「誰も断らない」ということでもあるから、どんどん支援の規模は膨れていく。共同作業所から社会福祉法人相楽福祉会の設立も経て、30年あまり。必要になったものを生み続け、通所施設の利用者は100人以上。グループホームが7か所。そのほかに多くの種別の支援事業所が生まれ、組織は巨大となった。単に巨大化していく法人は他にもあるだろう。経営的な観点も含めて、人やニーズを選んで行う支援はまだやりやすい。しかし、生活を支える制度も脆弱な時代に、資源の生まれにくい田舎でそのような選別をすれば、必ず生活が成り立たなくなる人が出てしまう。自分は「誰も断らない」という方針を掲げて、長く理念を貫き続けた組織を他に知らない。
 もちろん、それを可能にするには採算性を度外視した膨大なエネルギーを結集させることが必要だった。それでも、彼のもとには多くの支援者が集まった。温厚でユーモアがあり、当事者も支援者もよく笑わせながら、信頼関係を築いた。そして、人の話をとにかく共感的によく聞いてくれた。「お忙しいところをすいません」と会いにきた人々に「いや、暇で暇で」と応じて、いつも誰にでも門を開いていた。きっとそのように答えることが、SOSをキャッチしやすくすると考えておられたのではないかと思う。当事者の苦悩も支援者の弱さも真摯に受け止め続けた。
 そして、彼自身はいつも障害をもつ人とともに暮らしていた。知的障害をもつ人のグループホームで暮らしていた。諸事情からグループホームでは暮らせなくなった知的障害をもつ人とふたりで暮らしていたこともあった。20年以上にわたるそのような生活をこよなく愛し、ご自身の家族もありながら、ほとんど自宅には帰らなかった。それでもお子さんは同じく支援の道を歩んでいると聞くから、限られた親子生活の中であっても、どれほど大きな存在であったのだろうと感嘆する。
 大きくなり続けた法人運営は次第に厳しさを増していった。障害をもつ人々(や家族)は年齢を重ねるにつれて、ますます多くの支援を必要とする。他に何も資源が生まれない中で「いま支援を必要としている人」に対して、気休めになるでも言い訳をするでもなく、現実に支援を続けてきた結果として、支援者たちは多忙になり、ひとつひとつの支援に向き合う余裕は失われていく。
 近年は、それを「負の遺産」と呼び、解決への道筋をつけようと尽力しておられた。そのような格闘の中でも隣県において何も資源のない郡部でのNPO設立をバックアップするなど、新しいものを生み続けた。また、阪神大震災や台風被害、東日本大震災など、大災害が生じればすぐに法人として現地での支援に乗り出していった。東日本大震災が起きたときには、すでにガンという病とともにあったにも関わらず、すぐさま現地との連絡をとり、職員たちを被災地へと派遣していった。
 見聞きしたものからいつでも自らの支援を問い直そうとする方で、いくつになっても驕ることなど決してなかった。出会った当事者の言葉も支援者の言葉もみんな受け止めて糧にしていくため、時代が変わっても年齢を重ねても、最先端に立ち続けた。そのような姿勢は、ガンが進行する中でたった2冊だけ記されたブックレットの中にもよく表れている(参照1参照2)。ガンの進行とともに治療を拒否することを考えた自身を、障害をもつ人たちの存在や価値と重ねて、「内なる差別」を省みることまでしておられた。
 「運動」という言葉をよく使われた。これは自分の主観かもしれないが、現実の結果を伴わない運動とは距離を置き続けたように思う。スローガンに終わる運動よりも、当事者の生活が一歩でも前に進むことにこだわった。それでも、過度に政治化することもなく、怒るときは怒り、譲れないものは譲れない現場の理念は貫き続けた。自立支援法が施行されて、障害者福祉の制度化がいっそう進んでからは、全国的な運動よりも地元をよりよくすることに力を注いでいるように見えたが、先述した「負の遺産」への責任を深く感じておられたばかりでなく、必要なものはすべて地域の中で当事者と関わりながら考えていく以外にないという原点に帰られたのではないか、とも思えた。
 自分は勝手に師と仰いでいたが、彼にはどのような存在として映っていたのだろうか。いつでもあたたかく接してくださり、自分の相談も愚痴も泣き言もよく聞いてくださり、必ず救いとなる言葉をかけてくださったがゆえに、いっぱしの支援者として認めていただけていたのか、そうでなかったのかもわからない。たとえ聞けたとしても、きっと「自分のような者がそのようなことを言える立場ではない」と謙虚におっしゃるのではないだろうか。この小文のタイトルにつけた「偉人」もご本人は決して受け入れないはずだ。
 追いかけても、決して追いつけはしない。ただ、これからも行き詰ったとき「廣瀬さんならば、どう考えるだろうか」とは思えるだろう。一生のうちに、そのような存在の支援者と出会えたことは、きっと幸せなことである。廣瀬さん、本当にありがとうございました。いつまでも未熟で頼りない自分ですが、力の限り頑張ります。どこかで見守っていてください。