「体罰」について少し
世間のことでも、仕事のことでも書きたいことは山ほどあるが、今月は慌ただしすぎて、全く無理だ。月末までにしなければいけないことが多すぎる。
まとまった文章は書けないけれど、これだけは言いたい。あの高校のあの課の入試だけ中止したって、全国の至るところでマッチョな指導方針の教員に苦しめられている多くの生徒たちは救われない。この国全体の教育観の見直しに踏み込まないならば、あの高校はむしろ都合のよいスケープゴートとなって終わる。
効果を得られることの代償に関して「体罰」と等価なものは他にもたくさんあるだろう。このままいけば、それらは疑問視されず、温存される。「これは体罰ではない、暴力だ」という切断なんてかわいいものである。有形の「体罰」はすでに他の多くの無形の暴力から切断されてきているのだ。だからこれから必要なのは「体罰は人が傷つくからよくない」とか「体罰は役に立たない」と言うのではなく、「成果に向けて『生徒の行動を変える』ことが実現できたとしても、失われるものが大きすぎる」という体罰の性質を知り、それに似た構造をもっているものを学校教育の中で洗い出すことである。