泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

支援者としての立ち位置

 もう少し考えをまとめてから何か書きたいようなことだけれど、ひとまずのメモとして。
 以前に障害学会で「自分が信用するのはアドボケイター(代弁者権利擁護者)としてのソーシャルワーカーだけ」と話していた当事者がいたけれど、支援者はしばしば「(支援を要する)当事者」と関係機関の間に立たされる。ソーシャルワーカーの機能というのは、教科書だといろいろと列挙されていて、明確にひとつの立ち位置が示されているわけではない。
 「あいだ」に立たされたとき、客観的に見て「どちらの言い分が正しいか」なんて話は、問題をどこに設定するかによって変わるのだから、多くの場合はどちらの言い分にも耳を傾けるべき部分があるに決まっている。だからといって「あちらも大変だから」と聞かされて、納得する当事者はいない。では、衝突を煽ることで好転するかと言えば、もちろんそんな状況も少ない。
 あいだに入って良い着地点を見出すというのはなんだか大人な感じがする。どのような機関ともそれなりに良好な関係を築きながらやってきているので、「どっちの言うこともバランスよく聞く」ことはできる。しかし、そもそも当事者からの相談を受けるところからはじまっている以上、両者の真ん中に立っているとは言い難い。内容にもよるが、支援者としての心情も当事者の主張に支持的である。いま自分が直面しているテーマに関して言えば、学校の校内体制の不備なんて聞きたくもない、というのが正直なところだ。
 適当なたとえではないだろうが、弁護士と裁判官のどちらになりたいかと言われれば、自分は弁護士を選ぶ。しかし「裁判官」はどこにもいない。裁判官がいない裁判に突入して溝を深めるぐらいならば、もっと手前で穏当に衝突を避けるべきなのか、となる。たぶん現実的な運動家はこのようなスタンスを好むのだろうが、やはり妥協すべきでない一線というのはあるように思う。書いていて自分でも歯切れが悪く、どうもすっきりしない。この流動性を「現場のリアリティ」で片付けるのはあまり建設的とは言えないのではないか。