泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

自発的な受動・受動的な自発

 知的障害かつ自閉症の子どもと外出する。彼は自分からスケジュールに入っていないものに心を奪われ、導かれていった。それは全くかまわない。少なくとも、今回のその場の状況においては。もともとスケジュールも彼自身が組んだのであるし。
 しかし、心奪われた先で少しばかり過ごし、どうやら「もう十分」と思ってはいるようだが、終わり方・終わらせ方がわからない。こちらに終わらせてほしいと目で訴える。終わらせるのは簡単だが、指示に対して受動的になってほしくないと思うから、意思表示のできるツールの存在を思い返してもらおうとする。が、これもこれでまたツールを意識させてもらうことに対して受動的になってしまわないか、とも考える。こうして「自発」を奪ってしまうかもしれないという不安は、底がなくなる。それでも、どこかで区切りをつけねば、状況は打開されない。
 人はなぜ「自分で決めていい」ときと「誰かの指示を待つ」ときを区別できるようになるのだろう。「今はあなたが決めていい」は誰かによって示される。「今は誰かに決めてほしい」と自分から意思することもある。自分で決めた末に、終わりは誰かに決めてもらいたいこともある。誰かに指示されながら選んだ経験から、自分で決める喜びを知ることもある。
 自発と受動はときに互いを必要として、支援者を悩ます。矛盾というわけではないだろう。相補的に学ばれるものであるように思うが、その過程はわかりにくい。受動も自発も単純に全肯定・全否定できないから、周囲からそのつど便利に評価されうる。コントロールでもなくプレッシャーにもならないような支援の基準はどこにおけばよいか。