泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「自分の頭で考えよう」をもう少し考えよう

 少し話題になっている例の「自分の頭で考えられない」東大生の記事について。
東京大学には入ったけれど・・・ああ無常人生の失敗を始める頭の“良すぎる”学生たち
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35548
 大学で非常勤講師として少しだけ勤めた経験があり、今も学生ボランティアと多く関わる者として筆者の苛立ちは理解できる。
 でも、まずは大学に入るまでの間に「問題」と「解答」によってふるいにかけられ続けてきた学生たちは「自分の頭で考えなければいけない問い」にどこで向き合うチャンスがあったのか、を考えたほうがよいと思う。
 学期ごとに、ときには連日のように繰り返される「一問一答」の試験にさらされながら、いったいいつ「自ら疑問を持ち、自ら考え、自ら調べて自ら結論を出す」機会があるのか。友人関係? 家族関係? 恋愛? 部活動? どれにしたって高等教育に至るまでの学業の内容とは関係がない。大学入試のペーパーテストとも関係がない。どの試験科目で必要とされる能力なのか。
 次に、多様な発達の子どもたちと関わる自分の立場からすれば、「自分の頭で考える」ことの大切さは認めるとしても、単純な「回答のパターン」の中で生きていくのが無理のない人間というのもたくさんいるのだ、ということも、「先生」は知っておいた方がよいと思う。大学はもちろん、高校でも中学でも小学校でも。
 社会は、特に現代的な「仕事」は一方でますます高いクリエイティビティを求めながら、一方でマニュアル化されたシステムに沿って働く人々もまた必要としている。どちらのほうが労働として価値があるなんて言えない。どちらも互いを欠いては成り立たない。
 そして、大学に入るまでの成績が良好だった者が、この二つの極の間のどこに身を置くのが最適なのは、わからない。調べたら少しばかり成績との相関はあるのかもしれないけれど、大学の偏差値だけで目の前の学生の位置を定めることはできないだろう。「発達障害」「発達凸凹」はその極端な例として想定できるけれど、そこまで言わなくても、得意なこと苦手なことの多様さはある。「学力があるのだからクリエイティブになりうる潜在的な力があるはずだ」なんて言えない。
 自分の頭で考えなければいけないことは人生において誰の身にも降りかかる。自分の生き方に最も深く関わる問題の解き方はみんな知っておきたい。それを学ぶ機会は確かにどこかで必要だろう。ただし、それは大学教育の中で教えられることではない気がするし、いつでも「自ら疑問を持ち、自ら考え、自ら調べて自ら結論を出す」べきものなのかどうか。
 大事な決断を迫られるような問いはたいてい向こうからやってくるし、悩んだら人に聞いてもよいし、結論を先に延ばしたり、流れに身を委ねるのもひとつの生き方としてある。「自分の頭で考えるのがよいかどうか」を判断するのもまた「自分の頭」であると考えたら、すべてを他律的に生きるというのは無理だけれど、自分の頭なんてどこまで信じられたものか。
 この記事に書かれているような学生が、総合的な学びを期待されるような大学に進むのが向いているかどうか、というのは考えるべき論点だと思う。もっと早い時期から具体的な将来設計が描けるようにサポートされて、大学とは違う道に進めたほうが、彼の特性は活かされるのかもしれない。子どもの頃から自分自身が「いかに考えるのが得意か(苦手か)」を知ることができれば、みんなが「大学」を目指すことはないのだろうと思う。
 ただ、現行の教育システムの中でそのような選択は生徒からも教員からも決してポジティブには受け止められないだろう。「自分の頭で考えない」責任も対応策も教員と学生の間で完結しなければならないとしたら、そんな呪縛の中にある大学というのは本当に不幸な場所である。