泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「発達障害による生きづらさ」に向けられる視線

 当該の番組を見ながら、関係者が少し感じていた不安が的中した気もするが、そう言っているだけでは済まされない論点も提示されていると思う。
赤木智弘氏のツイートに激しく落胆した件 あるいはアスペルガー症候群者と定型発達者の「間」で起こることこそが問題なのだということ
http://mindgater.hatenablog.com/entry/2012/05/19/022041
 18日夜に、NHKの『情報LIVEただイマ!』という番組で「大人の発達障害」について特集があった。その中で「上司からの誘いを『見たいテレビがあるから』と帰ってしまう社員」などが「発達障害者」として例示されたりした。全体に「相手の気持ちがわからない」ことを自閉症の特徴として強調した部分が多かったのである。
 実はこの番組、「血液検査でASD自閉症スペクトラム障害)かどうかがわかる」という内容が事前から広報されていたため、それを知った関係者が「大丈夫か…?」という感じで注目していた番組だった。結果的に「血液検査」はわずかに取り上げられたにすぎず、その後も特に話題になっていない。大阪の件もあった後なので、科学的知見については慎重な扱いを意識されたのではないか、とも思った。
 閑話休題。その番組中で「自閉症の人は相手の気持ちがわからない」と何度か強調されるのを見ながら、ここから帰結する視聴者の理解として、いくつかのパターンが考えられた。
 視聴者が「そうか、あいつの言動は、相手の気持ちがわからないことに原因があるのか!」と納得して、それを受容したり、コミュニケーションを工夫したりする方向に進むならば、よい。
 しかし「どこにでもいる空気の読めないヤツを『発達障害者』として甘やかしているだけではないのか?」と受け止める者も出てくるかもしれない。
 さらには「これは職場等での『発達障害者』探しにつながるのではないか?」とか「人とのコミュニケーション能力や社会性を強く求める現代社会が『発達障害』というラベリングを活性化させてしまっているのではないか? 問題を見出されるべきは社会の側ではないのか?」という者も出てくるかもしれない。
 そのような想像をしていたら、赤木ツイート。記事中で引用されているのは一部であるので、その前後も確認していただいたほうがよいのだけれど、結局「『障害』によって免罪されるのであれば、その自閉症者から迷惑をこうむった『被害者』はたまったもんじゃない」という主張である。
 そのような「被害者」にとって迷惑をこうむる状況は、そのまま放置されて、ときに「発達障害者」の人生を脅かすような状況にも結びつきかねないから、悲劇を避けるべくこのような番組が作られているのだと思う。まずは「発達障害があるから」という理由づけを多くの人に知ってもらうことでコミュニケーションが衝突した際のクッションにできるようにして、その上で互いにできることを考えていこう、というのが曖昧な表現ではあるが無難なまとめとなるのではないか。
 ところが、「定型発達」と「発達障害」の境目はぼやけやすい。番組中では「発達障害というより『発達凸凹』」なんて言葉も出ていた。「定型発達者」として社会の中での生きづらさを感じている人々にとってみれば、「『発達障害』を理由に過剰に守られている」という印象が強まってしまう。生きづらさにもいろいろあるとはいえ、対人関係から人生につまづくケースは多いに違いない。それとはどう違うのか、となる。
 ここで発達障害者の生きづらさは「脳の機能障害」に起因するものだから、という説明は、ほとんど意味をなさない。そもそも「発達障害」は原因論的に診断がおりるものではなく、「定型発達者」とされる人々の生きづらさが脳機能とは全く無縁であるという根拠は示しようがないのだから。「オレだって、他人との関わり方について努力しているけれど、うまくいかずに苦しいんだ!」という声に対して、「それは『発達障害』とは無関係だから自分の力でなんとかしてください」と答えるのだとしたら、相手が納得しうるだろうか。たぶん無理だろう。
 人と人がうまく関わるというのはそもそも誰にとっても非常に難しいことなのだという前提のもとに、より幅広く「生きづらさ」を抱えた人に対する社会的支援(周囲の人による小さな配慮等も含めて)の必要を叫ぶのか。あるいは、社会性に関わるような「生きづらさ」を「発達障害に起因するもの」と「そうでないもの」に分ける基準を明確にしていくのか。これからどちらに進んでいくのかによって、発達障害者支援業界への世間の目は変わるのかもしれない。それぞれにメリットもデメリットも、ある。