泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

大阪市「育て方が悪いから発達障害になる」条例案について

 ひどいものを読んだ。
家庭教育支援条例(案)
http://osakanet.web.fc2.com/kateikyoiku.html

第4章 (発達障害、虐待等の予防・防止)
発達障害、虐待等の予防・防止の基本)
第15条
乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因であると指摘され、また、それが虐待、非行、不登校、引きこもり等に深く関与していることに鑑み、その予防・防止をはかる

(伝統的子育ての推進)
第18条
わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できるものであり、こうした子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する

 もし、この条例がこのまま成立するならば、大阪市発達障害をもつ子どもたちと家族は一刻も早く、大阪市を脱出したほうがよいと思う。
 この条例の考え方において、発達障害の子どもは「予防に失敗された存在」であり、その親は「子育てに失敗した親」である。行政が条例の中でそのようにおっしゃる地域で、親も子もどんな顔をして生きていけばよいのだろうか。
 報道ではもっぱら「保護者に保育士体験」ばかり取り上げられているようだが、発達障害関係の部分のほうが遥かに深刻な内容をはらんでいる。条文に目を通せば「科学的知見」が家庭教育には大事だと書かれているのだから、当然この条例の主張もまた「科学的知見に基づく」と考えられていると理解せねばならないだろう。「伝統的子育て」が何を指すのかは全くわからないが、「伝統的な子育て」が科学的であったとは知らなかった。
 「発達障害は治る!」というセンセーショナルな表現を使ってきた関係者は数多くいる。「発達障害」が「定型発達」との間で断絶したものでなく、連続体としての側面を持っている以上、それは固定的なものではなく、早期からの子どもへの適切な関わりや環境整備によって、ずっと暮らしやすくなりうることは確かであろう。そのような事態を「治る」と呼ぶことに自分はずっと否定的であるが、今となって思えばこれはまだまだ「かわいい」ものであった。
 条例における「発達障害」観は、障害を固定的なものと捉えないものの、もっとタチの悪い「原因論」を持ち込み「育て方に問題があるから発達障害になり」「育て方を改善すれば発達障害は生じなくなる」という点ばかりを強調している(と書くと「学際的研究をするとも言っているのだから」という反論もあるのだろう。しかし、この条例中で唯一「発達障害」との因果性をもつものとして具体的に示されているのは「育て方」なのだから、そんな大らかな読み取り方などできるはずがない)。
 障害を個人化する「医学モデル」は近年「社会モデル」の台頭によって批判を受けやすくなっているが、この「育て方モデル」はいっそう最悪である。日本で「母原病」なんて言葉が広まったのはおよそ30年前。自閉症児の母親は冷淡な「冷蔵庫マザー」であると言われたのは1940年代から70年代ぐらいにかけてのことだったか。「科学的知見」とやらは、ずいぶん時計の針を戻したものである。
 被虐待児に発達障害と同様の「症状」があらわれることが有名な精神科医の著作によって指摘されたため一気に広まり、自分は「子育て」と「発達障害」の関連について問われれば「『一般的な子育て』の結果として『発達障害になる』ということはない」と説明をするようになったのだが、そんな現場の慎重な言葉選びさえもこの条例案を読めばバカバカしく思える。これが「親を追い詰める」のではなく「親支援」になると思っているのだから、おそらく障害をもつ子どもたちの親との関わりなんてほとんどない人間が考えたのだろう。
 「発達障害」による子どもたちのしんどさを軽減できるようにと考えて「社会的」な実践を積み上げてきたことが、このような形で「発達障害は予防できる」に飛躍されてしまったのだとしたら、もっと実践の中身を正確に見ろ、と言うしかない。そこでいう「社会」は「親子」という単位で完結するはずがないし、ましてや「育て方」などという相互作用に還元できるはずがない。
 社会的な実践の行き着く先は「多くの人々に発達障害の特性を理解してもらうこと」となるのが必然である。社会の中で生きることを急ぐ必要はないが、社会の中で生きることを堂々と放棄する(させる)わけにもいかない葛藤の中で、親も子も支援者もゆっくりと理解者を増やす努力をしてきた。「発達障害」という概念がこれほどまでに広がってきたのは、さまざまな事件がらみの否定的な注目を契機としつつも関係者が「正しい理解」を普及させようとしてきた結果でもあっただろう。
 そんな努力の成果を一気にぶち壊すような条例が、このまま当事者も支援者も研究者もみんな黙り込んだままで可決するようなことになるならば、既に大阪市の関係者には抗えばどんな目に合わされるかという「恐怖」と「あきらめ」が蔓延していると思わざるをえない。
 そして、条例の中でかなりの分量を「発達障害」が占めているにもかかわらず、それを何も報道しようとしない大手マスコミは本当に役立たずである。