泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

学校の先生になりたい人に読んでほしいマンガ

ニトロちゃん

ニトロちゃん

 少し前に出版されたマンガなので、もしかしたらよく知られているのかもしれない。自分は知らなかった。
 アスペルガー&LD&ADHDである著者の自伝的マンガである。小学校1年から中学校3年までが描かれている。特徴的なのは「担任」との関係を書いたエピソードが非常に多い点。中盤からの内容は非常に重い。担任から鼓膜が破れるほどの激しい暴力や絶えざる中傷を受け、担任を呪い殺そうとまでしながらようやく小学校を卒業すると、より最悪な中学1年が待っていた。陰湿で性的な暴力まで受けているのに「イヤだから休む」という考えはなく、学校に行くのはやめられない。週1のペースで遺書を書き続ける。自殺も考えるが、死ねない。死にたいのに死にたくない。
 最期のたった十数ページ、中学2〜3年の担任の存在が、救いのある読後感をもたらしている。発達障害の支援や教育について、この担任が何かすぐれた技術を駆使しているのかと言えば、そうは読めない。生徒との信頼関係を築き、生徒を悪者扱いせず、自信をつけさせることができる先生だった。ただ、それだけである。それだけで発達障害について必要な配慮は十分と世間に思ってほしくはないが、教師としての基本的な姿勢が整っていない者にどんな技術を与えようとしたって、うまくはいかないだろう。
 うちの法人は学生スタッフがたくさん活動していて、毎年のように「特別支援学校の先生になる」という学生が卒業していくのだけれど、こういう本を読むと、「『障害児の支援』に熱意のある教員志望の学生こそ、地域の(市町村立の)小中学校に行ってほしい」と思う。支援学校の力量だって、もちろん学校間でばらつきがある。それでも地域の学校のほうがずっと深刻だ。専門性を欠くとかいう以前に、多様な子どもの存在を受け止められる大人が少ない。障害をもつ子どもを包摂できるクラスを作ろうとすれば、学年別で教科中心のカリキュラムの中で「みんなと同じようにできるのがよいこと」という価値観と抗わなければならない。でも「みんな勉強なんてできなくていい」とも言えない。哲学も技術も必要な仕事である。
 自分は「支援学校の先生になりたい」という人とは話す機会がある一方、「小学校の先生になりたい」という人と話す機会がない。本当に啓蒙しなければいけないのは、そのような人々なのだ、と感じさせてくれる一冊。