泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「大人の発達障害」はこうして個人化される

 Yahooのトップページに出た記事はすごく多くの人の目に触れるわけで、やはり注意を促しておかないといけない。ましてや、過去に「発達障害」関係でいろいろと困った記事を載せてきた産経新聞では、なおさらである。
増える大人の発達障害 仕事に支障、ひきこもりも
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120110-00000085-san-soci
 ざっと読むと穏当な記事のようにも見えるが、この記事でいったい何を伝えたいのかを考えながら丁寧に読めば、迷惑なメッセージがひっそりと織り込まれているようにも思う。
 社会モデル的な障害観が見られないのはいつものことなのだが、真っ先に「発達障害者支援法」「行政の支援」に触れているので、なんだか当事者のしんどさに寄り添おうとしているかのように見える。
 そうして読み進めると「大人の二次障害」が大きく取り上げられていく。なぜ「大人の二次障害」に注目しているのかと言えば、「鬱や引きこもりや虐待」につながるからであり、「二次障害になると復帰が容易でない」からである。「二次障害」を問題視しながら、じゃあどんな過程で「二次障害」に至ったのかは書かれない。そこを書いてくれれば、社会の側の配慮の無さや非寛容さが伝えられるのだろうが、営業の仕事がうまくいかずに仕事を辞めたエピソードしか出てこない。別の種類の仕事ならばどうだったか、という視点もない。
 ワークショップについて書かれた部分は特にひどい。

 6〜8人のグループで、2人が5分間、テーマに沿った会話をし、残りの人はその会話の良かった点だけを指摘する。時間を区切って相手の話に集中するので、しぐさや口調の変化にも気づきやすく、独りよがりな会話を避けられる。聞く側は良い点だけを探すため、思いやりや共感を伴ったコミュニケーションの力を磨ける。冠地さんは「発達障害の人は自己肯定感に乏しい。批判や助言はそれに追い打ちをかけ、トラブルになることもある」と話す。
 相手の長所を探し、自分の良い所に気づくのはコミュニケーションの基本だ。冠地さんは「発達障害はもはや社会現象。でもできることから始めてほしい」と話している。

 文章の意味的な結びつきが一部わかりにくくなっている。これは当事者のコメントと執筆者の主張が無理やりに結び付けられているからである。自己肯定感が他人によって傷つけられやすいことを当事者が話してくれているのに、記事の中で取り上げられているのは、本人がいかにして「相手の良い点に気づき、思いやりや共感性をもつか」のみである。共感的なコミュニケーションができるようにならないと「自分の良いところに気づく」ことはできず「自己肯定感」も育たないという意味だ。発達障害の「社会性の困難さ」は、すべて当事者の側に回収させられている。当事者によるコメント部分だけを差し引いて読み返してみれば、執筆者の言いたいことは鮮明になるだろう。
 基本的に「発達障害」は克服すべきもので、克服する方法として読み取れるのは「自助努力」か「行政のサポート」という二者択一。そして「行政は何をしたらいいかまだわかってない」から「当事者の自助努力がはじまった」というストーリー。そしてラストには、メチルフェニデートが大人には初回投与できないという情報。これを「薬を投与できたらいいのにね」という意味以外に解釈できるだろうか。
 この記事を読んで、身のまわりで苦労している「発達障害者」に対して「自分は何ができるか」とは誰も考えない。同情はあるかもしれないが、支援は生まれない。にも関わらず、全体としては社会的支援の必要を言っているかのようにも読めるという巧妙な記事。