泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

結局「できること」を探してはいないか

重い障害を生きるということ (岩波新書)

重い障害を生きるということ (岩波新書)

 書評めいたものを書こうとして、まず概要として「長年『重症心身障害児』と関わってきた医師が、その歴史と」まで書いたところで、あとがうまく続かなかった。表現としては少し不格好だけれど「重症心身障害児から見た世界がどんなものか」を明らかにしようとする」ということになるのだろう。
 障害の「重さ」ゆえに価値を否定されやすい人々が社会的に十分な支援を受けてこられなかった歴史を踏まえれば、その「存在」そのものに意義を見出そうとするのは理解できる。3章に書かれた戦中戦後の社会は「治らない障害」についての冷淡さを露骨に表している。福祉的な支援などほとんどなく、医療が最後の砦となる中で「治らない者に医療は必要ない」と退院を迫られる子どもたち。「地域で支援を受けながら生きる」なんて選択肢は全く存在しない時代。「ノーマライゼーション」が出てくるのさえ、この本に書かれた歴史の中ではかなり終盤である。「なぜ社会的な支援が必要なのか」という問いに対して、関係者は返す言葉を持たなければならなかっただろう。
 障害の理解については一般的でない表現もいくつか出てくる。著者自身の医学的知識の中ではうまく説明のつかない事態について、何らかの説明を与えたかったのだろうと思う。これもまた重症児の置かれてきた状況とその支援を整えようとしてきた立場が生んできたものと考えれば、エビデンスがどうのと指摘する気にはあまりなれない。
 精神的に弱っているときに読んだため、関係者の努力によって社会的な支援が少しずつ広まっていく過程には涙を誘われるほどで、きっと多くの人にとっては「良い本」だ。それでも、今の障害者支援に携わる自分として、読み終えてすっきりしないのは、結局「重症児であっても、このように感じている」とか「重症児であっても、自己を実現しようとしている」という根拠をもって、支援の必要性を訴えなければならないのだろうか、という疑問が浮かぶからである。それはそれで何かしらの「できること」を前提に置かねば、価値を認めない態度の延長にあるのではないかと。「能力」をより社会的なところから、一段ずらしているだけではないかと。
 我々は「ただそこに人が生きている」ということから支援をはじめられるし、現実にそのようにして多くの支援ははじまっている。「障害があっても、わかる・できる・感じる」などのポイントを強調しようとする態度には、社会制度の不備を訴えるための戦略的な動機のみならず、支援者自身に「そのように思わないと、がんばれない」という意識があるのではないか、と疑ってしまう。
 これは「健常児者」と「障害児者」が「交流」をした後に、しばしば健常児から寄せられるコメント「障害を持っているのにがんばっていた。私もがんばりたい」にも通ずるものがある。教育の中では、障害をもつ子どもに何らかの役割を与えたり、できるようになったことをクローズアップして「○○くんもがんばっている」とか示すことで「健常児」にアピールするやり方が多用されていると思うが、それが「存在そのものの価値」を理解するために本当に必要な過程なのだろうか、とも思う。「教育」として他に良い方法があるのかと聞かれれば、今すぐに答えられはしないけれど。
 そして、我々が支援をしていて、子どもが「できる」ことに喜びややりがいを感じないのか、と言われれば、それも否定はしない。「できる」ことの肯定と「できない」ことの否定は等価ではないと思うので、そのふたつが安易に結びついてしまうことこそを問題視すべきなのかもしれない。
 先日、障害学のMLに「この本って、どうなんでしょう?」という投稿があったので、書いてみた。