泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

つぶやき

・15年ぶりぐらいにメガネを着用して1週間ほど経過。目の疲れが少しましになったような気もする。以前にコンタクトレンズを試しかけたものの眼科医の態度が気に入らず、そのままほったらかしだった。眼科に限らず、過去に出会った医者のほとんどが二度と行きたくないと思わせる態度の悪さ。運がないのか、こんなもんなのか。
・小さな小さな学校の特別支援教育のありようについて、教育実習を終えてきた学生から聞く。障害の有無に関係なく、子どもひとりひとりの存在感が違い過ぎる。
・そんな学校でもちゃんと支援学級はあり「知的」と「情緒」に分かれているのだそうな。全教職員数に占める支援学級担任の割合がすごいことに。
・就学前に子どもと関わった療育機関の「学校」に対する立ち位置は難しい。保育所や幼稚園ですら難しいのだ。与えられた環境の中で自分たちが最大限の努力をしていると信じている個人や組織への助言は、すぐに批判として扱われる。
・療育機関、親(子)、学校(保育所、幼稚園)の複雑な三者関係。療育機関は「ソーシャルワーク」について、どんなことを考えているのだろうか。「教育」や「保育」からの排除に対して、保護者とともに闘うことは、他の誰かがやってくれるのだろうか。誰が? 相談支援事業者?
・少なくとも、福祉や教育が個人を支えようとするのではなく、福祉や教育による不適切な関わりへの対応が求められる場面がたくさんあるのは間違いない。
・小学校の無理解に苦しんだ保護者が、支援学校の相談センターに駆け込んだ末に、小学校に対して指導がなされる。若い普通学級の担任が、ベテラン特別支援教育コーディネーターと保護者の間で板挟みになって、自分の思いを貫けない。教育は内部に年功と専門性の序列を併せて抱え込んでいて、良くも悪くも序列が活用される。
・福祉でも同じようなことはありうるのに、身近でなぜ顕在化してこないのか、を考えると、そこから教育と福祉の特徴が浮かび上がってくるだろう。顕在化しない排除のほうが不気味だ。露骨に批判される教育とどっちがましだろう。
・そういえば、支援学校の評議員会が今年は一度も開かれていない。嫌な予感がする。校長も変わっているし、よからぬ事態が進行しているのかもしれない。
・この土日は行動援護。その間に給与計算。大量の写真カードづくり。今日は地域の祭りに向けて学生スタッフたちが進めている準備があまりにもノープランで効率悪く、黙って横目で見続けるのも限界。ついに助言しつつ、手伝いまでしてしまう。2時間もかけて模造紙にルフィーを描く35歳。