泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

歴史研究の勇み足

 ネット上でも少し話題になった本をようやく買った。

障害を問い直す

障害を問い直す

 障害学者と経済学者等が名を連ねる本で、どの章も面白そうなので、全部きちんと読みたいと思いつつ、真っ先に読んでしまうのは自分に関係の深い内容のところである。そして、すぐにひとこと言わずにはいられなくなった。第6章について。

大谷誠・山下麻衣「知的障害の歴史 −イギリスと日本の事例−」
(前掲書の195-228ページ)

 一番言いたいことは最後に書くとして(そこだけ知りたい人は途中をとばしてもらってかまわない)、まずはこの論文の内容を大ざっぱにまとめてみよう。まず、第一節から三節まで。

1 本章では障害者の歴史を記述したい。特に知的障害の歴史をとりあげる。なぜ知的障害かというと、史料や研究蓄積が他の障害と比べて多いからである。さらにイギリスと日本を比較したい。なぜ、イギリスと比較するのかと言えば、日本の知的障害者対策に関わる専門職がイギリスを手本にしてきた部分があったからである。
2−1 1870年代以降、経済不況に苦しむイギリスで、支配層によって「貧困」と精神薄弱の関連が主張されるようになり、20世紀初頭になると王立委員会によって精神薄弱者の経済的自立の困難さが報告された。王立委員会の中では、貧困のみならず、犯罪との関連や優生学的な思想から「隔離」を求める者もいた。しかし、一定の労働力も認められていたため、労働の場でもあり生活の場でもある「コロニー」の提案がなされていった(これらの議論の中心は「軽度の」精神薄弱者であった)。
2−2 日本では、1890年代から1910年代にかけて、知的障害児向けの施設ができてきた。施設を作った人たちの考えを例としてあげれば、石井亮一は軽度の知的障害者を教育して、可能な限り普通の精神状態に近づけることが知的障害者教育の目的であるとした。脇田良吉は、知的障害児は「窮民」の卵であり、経済的自立ができないから、国の経済発展にとって不利益な存在になる可能性が高いと考えていた。理想的な障害者処遇の方法として「施設」は専門家に共通理解されるようになっていくが、一方で教育の現場においても、学級が同じ年齢の児童に同じ教育をする場として位置付けられたことや海外の特殊教育(補助学校・補助学級)についての紹介がなされたこともあり、1920年代以降になると都市部から軽度の精神薄弱児のために補助学級ができていった。補助学級への選別にあたっては、知能検査の占めるウェイトが次第に大きくなっていった。
3−1 イギリスでは、1913年に精神薄弱法ができた。しかし、予算が他の社会福祉政策に押されて抑えられてコロニー建設は進まず、1920年代からは地域の職能センターで軽度の精神薄弱者を矯正していくコミュニティケア政策へと移行した。この頃の管理庁の報告書では、いっそう精神薄弱と犯罪との関係が強調されるようになっていく。また、施設に収容されていた精神薄弱者が退所できる基準は、他人に危害を加えず、働けることであり、大多数が「軽度」の精神薄弱者であった。管理庁は、精神薄弱者の失業を社会環境の変化によるものとはせず、「怠け心」のせいであるとして職場環境の改善も考えなかった。収容施設から仮釈放された者は、失業すればまた施設に連れ戻される。地域の職能センターでの訓練は、施設に入りきれない者への管理を求める代替措置に過ぎなかった。
3−2 日本では、戦間期に民間施設や補助学級が増えていった。医師の三田谷啓は1927年に「三田谷治療教育院」を設立したが、その背景思想は各自にとって『適当な仕事』を見つけることが個人にとっても社会にとっても幸福である、というものだった。東京市内では1920年から40年代前半にかけて補助学級が1学校に1学級の割合で設置された。補助学級運営上の課題として、教師からは「補助学級に入ることを親が嫌う」「普通学級にいる勉強ができない子に『補助学級へやってしまうぞ』などと言ってしまいかねない」「普通学級との連携」などが挙げられた。補助学級における教育の「効果」は、次第に卒業後の自活と関連づけられ、「職業教育」に接近していったが、実際に経済的自立に結びついたのかどうかは史料がないので、わからない。

 読むべきところはたくさんある。特にイギリスの王立委員会での精神薄弱をめぐる議論なんて聞いたことがなかった。おそらくイギリスの歴史を専門にした人の方が中心となって書いているのだろう。
 しかし、いくつか不満がある。
 まず、日本の知的障害者史の部分については、この内容であるのに寺本晃久の論文が文献リストにないのがひっかかる。ネットでも読める論文である。

寺本晃久(2000)「『知的障害』概念の変遷」『現代社会理論研究』10。
http://www.arsvi.com/2000/0011ta.htm
寺本晃久(2001)「低能」概念の発生と「低能児」施設――明治・大正期における――」『年報社会学論集』14、15-26。
http://www.arsvi.com/2000/0106ta.htm

 史実は誰が調べても同じであろうし、自分には個々の記述の正確さについて評価を下すだけの知識もないけれども、少なくとも近代教育の制度化や就学率の上昇とともに「知的障害」が浮かび上がってきたことを最初にまとまった形で示したのは、これらの論文であると言ってよいのではなかろうか。石井や脇田らの実践についての記述もずっと丁寧になされているし、「経済的自立」や「犯罪」との関連づけるだけではおさまらないこともたくさん書かれている。
 寺本論文は「知的障害の社会的構成」とも呼べる内容であり、概念史を追う中で、自ずと「知的障害」が問題化される社会的背景が見えてくる。一方、この論文はイギリスとの比較をしたいがために「経済的自立」という視点を事前に持ち込んでしまい、扱いやすい言説を拾っているのではないか、という懸念が拭い去れない。

 次に、日本とイギリスの歴史を並べておきながら、そこから何も引き出せていない。想像だが、おそらく比較することに積極的な意義を見いだせないままに書いてしまったのではないか。冒頭で比較の理由として「日本はイギリスを参考にしてきたから」としか言えなかったところからつまずいている。
 1節の終わりで「イギリスでは、公立知的障害児学級の制度化は19世紀末に開始されたように、日本よりも早い時期から児童の選別は開始された。加えて、日本では、知的障害者向け施設導入への行政介入は戦後に始まり、大規模公立コロニーは1970年前後に開設されている。このようにイギリスおよび日本の知的障害者政策には大きなタイムラグがある。本章ではあえて両国の知的障害者処遇の状況を同時代的視点から考察することで、制度形成における時間上の「ズレ」を読者に提示したい。(199-200ページ)」と書かれているが、近代化の速度が違う二国を比べて、「ズレ」は当たり前のことだし、論文中で書かれていることは「19世紀から20世紀にかけて日本でもイギリスでも社会経済的な観点から選別が行われていくようになっていった」ということであるのだから、むしろズレていない(たとえ「コロニー」の建設時期には違いがあっても)。
 そして、何より不満なのは、上のまとめに含めなかった4節(最終節)である。本来ならば、論文の「結論」にあたる。まず冒頭を全文引用する。

 障害者(児)がどこでどのような生活を送っていくのかについては、今現在もなお課題が多く、議論の途上にある。
 たとえば、障害児がどこで教育をうけるべきかについては、日本の場合、市町村の教育委員会が児童の健康診断をした後、専門家らで構成された委員会が障害の程度や保護者の希望を踏まえて普通学級もしくは特別支援学級を選択する。保護者が結果に納得できない場合は、再度話し合い、就学先が変更される場合もある(『朝日新聞(朝刊)』2010年8月22日)。一方、イギリスにおいては、1981年教育法の成立から統合教育が進められており、日本とは異なり普通学級での支援が基本である。各校には専任コーディネーターが置かれ、教師・保護者・子どもが加わって、短期目標と手段などを記した個別教育計画を作る。学期ごとの見直しが義務づけられ、転校先や次の学校にも引き継ぐ。支援のレベルは、学内での支援、学外の専門家を加えた支援、地方教育当局の判定書に基づく支援の三段階がある(『朝日新聞(朝刊)』2008年11月25日)。
 このようにイギリス・日本における障害児に対する支援の体制一つとってみてもそれぞれに特徴がある。その特徴が生み出される背景には、各国において歴史的に形成されてきた障害もしくは障害者に対する捉え方が色濃く反映されていると考えられる。さらに支援の内容が変化している場合には、必ずといっていいほど、その時代ごとの経済状況、支援内容を決める政策担当者の考え方が影響している。

 学生のレポートかと思った。まさかの朝日新聞(朝刊)。まさかの「政策担当者の考え方」。ここから先の部分のまとめは、さらに今まで調べて書いてきたことは何だったのかと思えてならない内容になっていく。

・歴史的背景や経済のありようを踏まえるのが大事。
・障害児が受ける教育は基本的に周りの人が決めてきたが、選択をまずは障害児に委ねることが可能になるような仕組みを考えるべき。
・障害児が学校生活を送るのに必要なサービスを整えなければいけない。必要なお金を算出して獲得するための方法は、社会的文化的背景の違いを慎重に検討しながら、諸外国の事例を学んで、より具体的に考えるべき。
・イギリスでは、共生が模索され、日本に先駆けて障害者差別への取り組みも実施されてきた。一方で、近年は知的障害者虐待に関する事件が続いている。
・20世紀前半の知的障害者に対する負のイメージが今なおイギリスでは消え去っていないと推察される。「心のバリアフリー」がなくなるまでには(原文ママ)時間をかけた絶え間ない努力が求められるであろう。

 「結局何を言いたいのか」と問い詰めたくなる点まで学生のレポートそっくりであるが、単なる「まとまりのなさ」で済まされないのは、「歴史研究をやっている人って、結局、歴史を深く調べたいだけで、その成果を何かに役立てたいなんて本気で思ってないんじゃないの」と思われても仕方がない結論だからである。いや、役立てる気がないなら、それはそれでいい。それならば、現在の日英の障害児教育について、調べてきた歴史との具体的な関連を何も示せないまま、「朝日新聞(朝刊)」に書かれていた内容をそのまま引用するなんてことはすべきでないだろうし、唐突に障害児の選択権について自分の抱く理想を開陳すべきでもない(その内容がどんなに賛同されるものであっても)。
 たぶん著者は日本の特別支援教育についてほとんど何も知らないだろう。就学指導のプロセスも、健康診断が何月頃に行われているのかも、個別の教育支援計画の存在も、特別支援教育コーディネーターの存在も。もしかしたら特別支援学校の存在さえも知らないかもしれない(朝日新聞からの引用部分には書いてなかったし)。この論文を読む人たちも、もしかしたらそんな具体的なことにはほとんど興味をもたない人ばかりかもしれない。それでも、歴史研究において、対象の現況や自分のもつ思想について何を書いてもいいということにはならない。
 歴史研究をする人が、実践志向の強い人たちに囲まれたりすると、ただ史実だけを明らかにして「終わり」とすることに後ろめたさが残るだろうか。実践の現場はそれを望ましいとは思わないだろうが、無理せずに終わっておけば、少なくとも「無害」ではある。