泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

障害は「関係」の中にある、でよいか?

現代思想2011年8月号 特集=痛むカラダ 当事者研究最前線

現代思想2011年8月号 特集=痛むカラダ 当事者研究最前線

に所収の論文。三井さよ(2011)「『知的障害』を関係で捉えかえす ―痛みやしんどさの押しつけを回避するために―」を読んだ。
 『現代思想』って、査読的な仕組みはあるのだろうか。社会学者が社会学者であろうとすることが、はたして現場にとっていかなる意味をもつだろうか、と考えるのによい論文(研究ノート?)であった。
 まず、著者の主張を、要約してみよう。

1.「知的障害」を社会的なものであるとする理論的志向が強まっている。何かが「できる」「できない」が問題化するのは、社会的な文脈に依存するのだから、「身体障害」と同様に「知的障害」も「社会モデル」的に理解できる。
2.しかし、田中耕一郎は、知的障害者の「実在性」を否定しがたいと言い、社会モデルが知的障害者の〈痛み〉を取りこぼしてしまうのではないかと問題提起している。
3.田中は、生物学的な障害(インペアメント)と社会的な障害(ディスアビリティ)の区別を前提にしながら、その相互作用に注目している。
4.一方、星加良司は社会対個人という図式に立たず、ディスアビリティを個人と社会の相互作用の産物としての「不利益の集中」として定式化した。このように「関係」の中に障害を位置づけるべきだ。
5.また、田中は知的障害を「できない」という観点から考えているが、知的障害者の痛みは「できない」だけではとらえられない。「わからない」と表現したほうがよいときも多い。なぜなら、「何がわからないのか、がわからない」(から「困っていること」が問題化しにくい)という状況が明らかになるし、「わかる」は常に関係性の中で成立するものだからだ。
6.「わからない」ことは、当事者のせいにされやすい。しかし、「わからない」を構成するのは、周囲の人間でもある。にもかかわらず、「わからない」ことの痛みが当事者に「押しつけ」られるのは、まず「知的障害者」というレッテルがあるからである。また、「わからない」ときの当事者のふるまいが社会的には世間から「迷惑行為」としてとらえられるために、支援者にとってわからなさを解消するための余裕がないからである。
7.「わからない」ことは、どんな人間関係の中にもあるが、知的障害の場合は「わからない」ことがあった場合にその痛みから逃れる方途があまりにも少ない。
8.「わからない」ことによる〈痛み〉の「押しつけ」を一律の基準をもって特定するのは難しい。個別の状況を見るしかない。
9.「押しつけ」をしないための方法もわからない。「押しつけてしまっている」事態をそれとして認めるところから始めるしかない。
10.「押しつけてしまっている」事態を認めるための工夫はできる。そのためには、組織やネットワークなどのメゾレベル、また介助制度や教育、労働、司法、地域社会などとの関わりも問われる。知的障害を人と人との関係として捉えかえすとき、次第にメゾレベル、マクロレベルの議論へとつながっていくのは必然だ。
11.「知的障害」を関係として捉えかえすことの帰結として、組織やネットワーク、さらには社会制度や社会構造を問題化していくという課題が示されることになる。

 すぐに違和感を覚えたのは、冒頭の田中批判である。要するに「知的障害はあくまで関係性の中で構成されるものなのだから、生物学的な障害による〈痛み〉があるわけではない」「「知的障害」による〈痛み〉を『できない』という観点からとらえてしまい、『わからない』という観点からとらえないから、〈痛み〉が「関係性」によるものだということが理解できていない」ということだろう。そして、その批判を支えるものとして星加の理論が使われている。
 これは田中にとっても星加にとっても不本意な話ではないだろうか。
 田中批判の論拠としても、星加支持の理由としてもおかしいのは、障害とは「社会と個人の区別を前提にして捉えるべきでなく、相互作用で捉えよ」という主張である。そもそも「社会と個人の区別を前提にしているのがおかしい」というならば、その両者を区別することなしに「相互作用」がいかにして論じられるのであろうか。そして、星加が「障害とは相互作用の産物としての不利益の集中」をディスアビリティとして示すことの狙いは、インペアメントの無化だったのだろうか。
星加によるディスアビリティの定義とは次のようなものだ。

ディスアビリティとは、不利益が特有な形式で個人に集中的に経験される現象である(『障害とは何か』195ページ)。

 なるほど、個人の経験する不利益は社会的にもたらされるものであるというのであれば、障害は総じて「社会的なもの」であり「関係的なもの」で済むのだろう。しかし、星加のいうディスアビリティとは「不利益」ではなく、不利益の「複合性」「集中」である。

基本的に個々の社会的状況における諸々の「社会的価値」と「個体的条件」との関連に規定されて生じる不利益が重なる状態を、不利益の「複合化」と呼ぶことにしよう(『障害とは何か』198ページ)。

「不利益の集中」には、二つのパターンがある。第一に、特定の個人が多くの「社会的価値」についていずれも不利な「個体的条件」を抱えてしまっているために、不利益が集中するという事態が、不利益の「複合化」である。(中略)第二に、一つの社会的状態に関して不利益が生じるために、結果として特定の個人に不利益が集中する状態が不利益の「複層化」である(『障害とは何か』323ページ)。

 「不利益」は、障害の有無を問わず、「社会的価値」と「個体的条件」の関係から多くの人々にもたらされうるだろう。そこで「不利益」一般が「社会的なもの」「関係的なもの」であるという主張も可能だろうが、それでは「ディスアビリティ」を固有の問題として示せない。「不利益の集中」を示すことで、特定の人々にとっての問題が存するのを指摘できて、その特定の人々が「障害者」であると言える。「障害」とは、社会的に負わされた不利益の集中が先にあり、そこから後続的に見だされるものだ、と。
 このような理解を「相互作用で捉える」と呼ぶのは間違っていないだろうが、少なくとも「個人/社会」の区別を放棄したわけではない。ただ「インペアメントの経験はディスアビリティの経験と不可分に結びついている(『障害とは何か』324ページ)」ということである。
 次に、不利益の集中が社会的なものであるとして、当初の「不利益」はどうなのか、という疑問が生じる。著者は「できない」を「わからない」に置き換え、「わからない」と状況を「不利益の集中」として描こうとしているように見える。知的障害者に関しては「わからない」ことの〈痛み〉からの「逃げ場」が周囲の人々や社会構造との関係の中で乏しく、「押しつけ」られてしまうのだと。
 実は、取り上げられている田中論文について、草稿段階のものを読む機会があった(人を介してなので、田中さん自身は自分のことなどまるで知らない、はず)。今から4年ほど前のことである。そのとき自分は日記にこんなことを書いていた。

 知的障害が社会的に構築されている、ということに限界がある、ということは、もうちょっと疑えるように思う。impairmentの「社会的に構築されているとは言えない」部分がある、ということは、社会モデルによって解消されない問題の大きさを示唆するだろうか。彼ら彼女らは肉体的に「痛い」のではなく、「(周囲から期待されていることが)わからない」「(周囲から期待されるように)できない」ことに苦しむ(精神的に「痛む」)のであって、「わからない」「できない」ということは「社会」とか「環境」との関係の中でしか言えないのではないだろうか(もちろんその中に多様なレベルがあることは間違いないが、その精神的な「痛み」の程度がどのようなものであれ、社会と切り離して考えることは困難じゃないだろうか)。「わからない」「できない」ことがいつも政治や権力との関係で意味づけられるものではないとしても、それが生じるもととなっている「関係性」はやはり残されているように思うのだ。ただ、その「わからなさ」や「できなさ」の責任は誰に問われるべきなのか、という点で、社会モデルの有効性はどこまで言えるのだろうか、ということに自分はずっと悩んでいる。
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20071011/1192125473

 しかし、その後、あれこれ考えるうちに、この考え方は「知的障害」をもつ人々の困難さを適切に捉えられていないと思うようになった。もっとも大きな理由は、多くの「知的障害者」の生活の困難さを「わからなさ」として理解し、「わかりやすくすればよい」と考えるだけでは不十分なことが多すぎるからだ。
 「わからない」というのは、認知だとか記憶だとか言語だとか、いくつかの「個体的条件」により、多数派の人々と同じようには周囲の環境を捉えられない(捉えることが「できない」)から「わからない」わけである。だから「わからない」は、確かに環境と相関的だ。多くの支援は「環境をわかりやすく」するために行われる。
 ちなみに、やや蛇足的になるが、「できない」こともまた関係的である。多くの人々は100メートル10秒で走れないことに「できなさ」を感じない。「できない」を自覚するには、必ず「できる」人の存在や社会的な「できるべき」ことの基準がなければならない。このような問題も含めて、「わからない」と「できない」を区別するのは簡単でないのだが、「何がわからないか、のわからなさ」に照準することで、ひとまずは「わからない」を「できない」の中から浮かび上がらせられたとしよう。
 ところが、多くの「知的障害」の人々と関わる経験をもった人ならわかることとして、「情動」とか「感覚」とか「こだわり」とか、「わからない」という問題と関係づけるのは難しい課題がたくさんある(かなり広義に捉えて、脳による「情報処理」の問題とは言えるかもしれない)。「身体」の問題だって、知的障害と深く結びついているから、無視できない。「『ディスアビリティ』としての不利益の現れ方から、研究として『知的障害』を特定しているのだから、対象は限定的になるのだ」という反論があるだろうか。それならば、いかなる『ディスアビリティ』に研究対象を絞り込むのかについての説明が先にあるべきで、論中で「知的障害とは何か」という問題提起をして「『知的障害者』はいろいろなことが『わからない』とされる」なんて説明しているのは奇妙である。
 「それらは『知的障害』ではなく『発達障害』の問題なのでは?」という人がいるかもしれない。そのような区別に、ほとんど「実践的な」意味はない。古くから「知的障害」と向き合ってきた支援者は、たとえば「強度行動障害」とも深い関わりをもってきただろう。田中が特に重度の知的障害について「実在性」をほのめかすのは、おそらく「わからなさ」を超えたところの困難さを抱えた人たちとの関わりを数多く経験しているからではないか。とはいえ、それを「実践経験の差」と片づけるのは、研究者に対して失礼にもなるし、研究以前の職歴を踏まえた推測でしかない。
 論文の特に前半部分において、知的障害について社会モデルを踏まえた議論を展開した数少ない先行研究として田中論文を参照したものの、「社会学者」として社会モデルで包摂されない部分については踏み込めないので、問題を「社会モデル」の内に閉じ込めておこうという消極性が感じ取れてしまう。「知的障害の社会学」がこの路線で進むならば、学問的に目新しい成果があげられたとしても、現場にとっては既視感のある話に終わるのではないだろうか。それすらも、これまで公になったことがないなら、価値はあるとされるのだろうが。
 この論文の前に掲載されている杉田俊介さんの論文が、哲学、現代思想社会学、障害学、当事者研究脳科学、精神医学、心理学など、必要ならばどんなことでも考えてやろうという意欲に満ちているだけに(そのぶん超難解ではあるが)、「臨床」に近づきながらも方法論は固持したい社会学の保守性が目立つ結果になってしまった。
 「知的障害の社会学」は、現場に根差しながらも、臨床的な貢献へと変な色気を出さないほうが面白くなるんじゃないかと個人的には思う。めったに読み応えのある研究に出会えないので、今後に期待。