泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「当たり前の生活」の暴力と誘惑

インクルーシブな社会をめざして―ノーマリゼーション・インクルージョン・障害者権利条約

インクルーシブな社会をめざして―ノーマリゼーション・インクルージョン・障害者権利条約

 誰かの暮らしを支えようとするならば「あるべき生活」を思い描かねばならない。

 では知的障害をもつ人たちにとって「あるべき生活」とはいったいどんなものか、という疑問に答えようとした人たちが「ノーマリゼーション(ノーマライゼーション)」ということを言った。しかし、同じように「ノーマリゼーション」という人たちの間でも、大ざっぱに分けてふたつの考え方があった。本書は、その差異を示すことに多くのページをさいている。

 ひとつは「世の中の多くの人たちにとって当たり前とされる生活環境の中で暮らせること」。
 もうひとつは「世の中の多くの人たちにとって当たり前とされる振る舞いができること」。
 前者を言ったのが北欧のニィリエ。後者を言ったのが北米のウォルフェンスベルガーである。

 このようにまとめると、支援者にとっては対極的な目的と方法が導かれてくるように思われるが、両者の主張は細部まで見ていけばすんなりと「社会か個人か」の対立構図におさまるわけでもないし、現実の支援においてどちらか一方のみにしか注目しない、ということもない。この国においては、誰によるノーマリゼーション概念を支持するのか、を明確にしなくても、なんとなくノーマリゼーションは「ひとつ」の知的障害者支援の原理として掲げられて重宝されてきたわけである。世間での知名度は、ともかくとして。

 しかし、いずれもひとつの条件を含む点では同じであった。それは「世の中の多くの人たちにとって当たり前とされる」。もっとも、これは正確な訳語でもなく、自分による荒っぽい言い換えである。正確に言えば、「ノーマル」あるいは「ノーマティブ(規範的)」な生活や行動を設定して、支援の指針を立てることを良しとしてきた。

 本書の中でも書かれているとおり「ノーマリゼーション」の表現は以前ほど用いられなくなっている。その理由は、丁寧に社会の中でのノーマリゼーション言説を追わなければわからない。諸外国で入所施設の解体が進んだことで歴史的使命を終え、より普遍的な「インクルージョン」概念がそれに取って代わりつつある、という説明は、この国にそのまま当てはめられないだろう。

 原理に内在する問題に限れば、多数派にとっての「当たり前」を踏襲すべきとすることは、差別や排除に抗う力を与えつつも「人前での奇妙な行動は慎まれるべき」「たとえ働くのが難しくても、働けるように努力すべき」「35人学級の中で学ぶべき」などの不自由を招き、形式的な包摂と引き換えに多くの努力や無理や代償を求めうる。さらには「コミュニケーションのための特殊なツールなんて使うべきでない」といった合理的配慮批判にまで至りかねない。となれば「当たり前」は放棄してしまいたくなる。

 一方で何らかの「当たり前」を設定することなしに、支援指針を決めるのはなかなかの難問である。支援者個人にとっての「当たり前」が密輸入されるのは避けなければならない。では、本人にとっての「当たり前」ならばどうか。それが「本人にとって」と言える根拠がわからなくなる。既に成育の過程で社会的な影響を受けながら形作られてきた「当たり前」ではないのか、と考えれば、何もかもが疑える。個人にとっての「当たり前」が単なる思い込みでしかないならば、多数派の「当たり前」に従おうとする支援者を単純に責めることもできない。

 おそらく「当たり前」をいくつかの水準で考えれば、なんとなく多くの人から合意の得やすい答えは出るのだろう。ただ、それはきっと社会的な合意である。原理的には答えが出る気がしない。だからこそ、自分たちの支援は難しく、世間から理解されにくい。

 今日は日中、公園でひたすら草をむしりまくる彼を見守っていた。ハンバーガーはパーツごとに分けてしか食べられない。ノドが乾けば、絵カードでお茶を求めてくる。ここに何か問題があるだろうか。

 ここで「当たり前」かどうかではなく、「他人に迷惑がかかる」かどうか、という基準が浮かんでくるかもしれない。共生の原理を侵さない限りにおいて、どんな生活も認められるのだ、と。しかし、たとえ避けるべき「迷惑」とは何かを確定できたとしても、それは消極的な支援指針にしかならない。やってはいけないことを示しても、どう暮らすべきかを示してはくれない。

 さて、支援者は積極的に何ができるだろうか。