泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

落としどころなし

 これからの支援制度について議論が重ねられる間にも、嫌われていく一方の政権。もう制度の動向を追うのがどんどんバカらしくなってきているというのが正直なところ。支援費のときも自立支援法のときも、少しは事前に予測が立てられた。しかし、今回は無理だ。無理だからと言って、法人に「制度なんて関係なしにやっていくぞ」と意気込めるほどの強さはないのが悲しい。せめて前向きにとらえたいが、実際は「リスクマネジメント」である。
 数日前に当事者を多く含む「推進会議」に、内閣府障害者基本法の改正案を出した。 
障害者基本法内閣府が改正案概要 「障害は社会問題」毎日新聞 2月15日)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110215-00000111-mai-pol

 内閣府は14日の「障がい者制度改革推進会議」で障害者基本法改正案の概要を示した。改正案は通常国会に提出の予定だが、障害者側と省庁の見解に隔たりが大きく、提出まで難航も予想される。
 概要は障害者の定義を、身体、知的、精神などの障害があり、社会的障壁によって日常や社会生活に「相当な制限を受ける状態にある」人とした。社会的障壁は日常や社会生活で「障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切」と明記。障害を個人的問題ではなく社会的な問題ととらえる見方を示した。

 一方で、先月末に厚生労働省が出した障害年金の認定基準。
知的障害年金:認定基準を明確化 発達障害は新設 厚労省毎日新聞 1月27日)
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110128k0000m040074000c.html?inb=yt

 厚生労働省は、知的障害者の受給する障害年金の等級認定基準を見直し、明確化する方針を決めた。「基準があいまい」との指摘を受け、食事の介助の程度や会話能力などを示す。また、これまで知的障害の基準が適用されてきた発達障害の認定基準を新たに設け、コミュニケーション能力などを例示する。専門家の意見を踏まえて、来年度に関連通知などを改正する
(中略)
 同省の素案では、現行の表現に加え、「食事や身の回りのこと」をするのに1級の場合は「全面的援助」、2級は「一部の援助」を必要とすることが盛り込まれた。会話による意思疎通に関しては、1級で「不可能か著しく困難」、2級は「簡単なものに限られる」との例示を加える。
 また、自閉症アスペルガー症候群といった発達障害は、対人関係や意思疎通に難があり日常生活が不便とされ、知的障害を伴わない場合も少なくない。これまでは知的障害の基準が適用され、「障害特性を反映できない」との意見があった。
 素案では、1級は「コミュニケーション能力が欠如し、著しい異常行動がみられるため、日常生活への適応が困難で常に援助が必要」、2級は「コミュニケーション能力が乏しく、異常行動がみられるため、日常生活への適応に援助が必要」とした。さらに、診断書も見直し、日常生活能力について例示を詳細にする。

 今国会中に「社会モデルで基本法改正だ」という流れ(今の政局では、どんな法案ならば通過するのか全く自分にはわからないが)の中で、厚生労働省から出されたのはどう見ても個人モデル寄りの認定基準。もうこの両者の溝が埋まるとはどうしても思えない。あとは省庁の間、当事者と政治と官僚の間のパワーゲームなのだろう。末端の支援者には流れに身を委ねる以外の選択肢が見当たらない。
 ところで、年金の認定基準。「日常生活への適応」という観点も環境を視野に入れているのだから社会モデルなのだ、と言えばどうだろうか。何が異常であるかは社会的に決まるのだから、社会モデルだと言えばどうなるだろうか。社会モデルのさまざまな位相について議論を展開する力量はないけれど、給付のための判定基準について社会モデルを強調すると、社会を含めたアセスメントは誰がどうやるのかという課題が避けられない。適切な支援環境が整えられて「異常行動」が減ったら、どうなるのだろう。「社会モデル」に徹すれば、そんな疑問も出てくる(すでに障害程度区分などをめぐっても、そんな話はあるようだけれど)。
 もっと根本的なところに立ち返れば、「異常行動」や「コミュニケーション能力」によってお金がもらえたりもらえなかったり金額が変わったりする、というのはどういう理屈なのか。収入を得られる仕事につくのが難しい、というのが前提とされているからなのか。そうだとして、では1級と2級に分ける理由はどこにあるのか。「ちょっと稼げる人」と「全く稼げない人」がいるだろう、というイメージなのか。そのような前提は正しいのか。そもそもそのような前提が正しくないから、1級か2級かの差に一喜一憂させられるのではないのか。
 すっきりしないことだらけ。支援の哲学から可能な制度設計、現実の運用までじっくり考えてみたいが、そんな気力はない。