泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「無縁社会」雑感

 NHK日本の、これから無縁社会』」視聴。
 討議に参加しているひとりひとりの「無縁な暮らし」イメージが多様すぎて、議論の焦点が定まらないままに進行されていくのは、こうした番組のよくある姿ではある。これといって、目新しい論点が出されたわけでもない。が、個人的には完全に「無縁」人生まっしぐらなので、改めて考えさせられるところはあった。
 自分は他人の生活を支えることを生業として、正規職員どころか法人理事長ですらあるわけだが、番組中で使われていた言葉を借りれば「支えられている」感じも「必要とされている」感じもしていない。職場を離れると、その度合いはますます高まる。ただ、そのような自覚にさいなまれるのは、かなり精神的に不健康なときである(ちょうど今がまさにそのような時期)。番組中でも少し言われていたが、自分が支えられているとか必要とされているとかを実感したがる状況というのは、もう既にかなり追い込まれている。ほどほどにうまく物事がまわっていて、人生に大きな不安がなければ、真っ向勝負を挑む必要なんて出てこないテーマだ。
 そうした窮状に置かれるのが社会のありように起因するのか、個人的な因子によるのかの二者択一の不毛さはよく知られたところであると思っていたが、番組の議論を見ていたらキャスティングからして、そのような図式化を意図しているんじゃないかと思えて、「テレビ的」な議論の構成というのは絶えずそこを出発点にしなければいけないのだろうかとうんざりさせられる。実証データが参照されたりすることもほとんどなく、各自が自分の印象や経験からわあわあ言うばかりで、研究者はどんな思いでこうした番組を見るのだろう。
 いや、そのような対立軸を最初に提示しつつ、ちょっとずつ壊していこうという意図だったのか? だとしたら、それは成功したのか? よくわからなくなってきた。