泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

支援者たちはいま何を想う

 震災から16年である。
 そのとき自分は浪人中であった。当時暮らしていた名古屋でも震度3ぐらいの揺れはあった。早朝に目が覚めたが、すぐにまた寝ることはできた。
 受験を間近に控えながら、年始から体調を崩し情緒不安定になっていた自分にとって、連日テレビを通じて報道される被災地の様子は、重苦しい気持ちをいっそうを締めつけるものであった。震災は火曜日だったが、その週か翌週の金曜の夜に完全に心が壊れ、突如として家族に哲学的な問いかけを始めたりした。それから受験までの数週間のことはよく覚えていない。ほとんど勉強に手がつかなかったことだけは覚えている。
 大学に入ってから、周囲には被災地に足を運ぶ学生がたくさんいたが、自分は結局行く機会がなかった。それでも、大学に「ボランティア」という言葉はずっと飛び交い続けていた。障害者福祉中心に活動をしながら、被災地の光景を思い浮かべることはあった。人が人を支えるのはなぜか。自分はなぜ被災地に行くのではなく、身近にいる障害をもつ人を支えようとするのか。そんなことを考える契機にもなった。
 たくさんのものが失われたが、この出来事によって新しい生き方を提示してもらえた人や大きな志を抱くことのできた人はきっと多かったに違いない。当時、学生だった支援者ならば、いま30代半ばぐらいだろう。中年にさしかかったからこそできる意味づけはきっとある。だから、何年が経とうとこの日はこの国にとって特別な日だ。みんな当時を顧みて、何を想っているのだろうか。