泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

寄付は「自己満足」と片づけられないために

 タイガーマスク運動について、既に書いたけれど、もう少しだけ。
 この種の寄付をめぐる賛否は、古くからある問題である。最初は単純に美談化していたものが、時間の経過と運動の拡大とともに「偽善」「自己満足」「ミスマッチ」その他いろいろの批判・指摘を受けるようになるのも見慣れた光景だ。自分の印象に強く残っているのは、阪神大震災。多くの物資やボランティアが被災地に押し寄せたことによる現地の混乱は有名な話である(「関係者には」の条件つきだったのかもしれないが)。
 善意+行動=善行にはならない。
 善意+知識+想像力+行動=善行。
 荒っぽい公式化とは承知している。もしかしたら知識と想像力があれば、善意さえ不要かもしれない。また、個人の善行の集積で社会がよくなるなんてことも思わないほうがいい。持続可能な支援のあり方はシステムとして作り上げねばならない。寄付・寄贈がなければなりたたない社会福祉では困る。
 だからといって、寄付行動の課題をあれこれ取り上げることで、個々の善意そのものをしぼませてしまうのでは、あまりに惜しい。寄付の送り手にとっても受け手にとっても、もったいない。だから、いくらかニーズとずれた行動があったとしても、意思と行動は区別して、まずはその意思を最大限評価したい。美談として盛り上げられてきたここまでの展開はこれでいいのだと思う。
 マスメディアや児童福祉関係者等に問われているのは、「これから」の動き。マスメディアはそろそろそういう動きをはじめるんじゃないかという気もする。児童福祉・社会福祉関係者からの発信にも注目したい。今回の場合「子ども」からの発信も聞いてみたいのだけれど。