泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

理念を大事にしたいのは誰だ?

 誰かを支援することの理念「だけ」を説き続けられるのは、特別な立場の者だけである。そんな立場に身を置ける人は多くない。理念だけで支援ができるわけではない。
 知識。技術。そして経営。
 では、理念なき知識や技術が人を支えられるだろうか。理念なき経営が成功するだろうか。
 「無理だ」と言いたい。
 しかし、今の自分にはそう思えない。
 理念は確かに支援者を牽引する。共感した人々を魅了する。方法を導く。
「誰かの暮らしを支えたい」という程度のものを、自分は「理念」や「哲学」とは呼ばない。どのように人が生きられる社会を作るべきなのか。人の生活を支えるとは何をすることなのか。地域で生きるとは何を実現することなのか。
 それでも、制度化された支援は、理念がなくともまわる。理念に信頼を置けないから使えない、なんてことはない。「使う」側は、子どもを預ってもらうことに理念を必ずしも求めない。行政だって、事業所に理念なんて求めていない。これからはじめてサービスを使うときなんて、とにかく預ってもらう以外に期待なんてないのである。
同じように子を預けられるならば、より理念のしっかりしたところを選ぶだろうか。いや、まず最初にどこかに預けて、そこに大きな不満がなければ、それ以上どこかとの比較を試みる必要なんて無いだろう。日用品をあれこれ選択して購入するのとはわけが違う。
 理念ゆえに「それは福祉サービスの利用で安易に解決されるべきではない」と言える問題があったとしても、悠長に交渉や運動の結果を待てないことだってある。この意味において「理念」なんて当事者には知ったことじゃない。支援者の勝手な信念でしかない。
 そして、理念はどうあれ、支払い額が大きかったら? 誰が安さを求めた親の選択を責められようか。事業者の理念とは関係なく、提供するサービスの種別によって支払額は決まる。理念を具現化した支援となるかどうかは、どの制度を活用するか、によって決まるはずがない。個々のサービスの制度上の目的なんて曖昧なものだ。とりわけこのあたりの障害児関係の制度運用はもはや一貫性ゼロで、とにかく子どもを受け入れてもらえる事業所が望む種類のサービスを、行政が場当たり的に支給決定していく、という異常事態だ。
 そして、稼ぎにならない制度ばかりを活用しながら、疲弊していく事業所と、稼ぎになる制度ばかりを活用して膨張していく事業所。生き残るのはどちらだろうか。前者を尊いなどと褒め称えていいだろうか。経営努力が足らないと責められるべきではないのか。今の自分たちが追い込まれているのは、そんな状況である。外部環境が大きく変わってきたことで、大きく変化を迫られている。
 ここ数日はあちこちで支援理念について語ることが多かった。今日は地元の議員団による見学。党派問わず、自分たちの考えに共感してもらえた手ごたえが大きい。質問も活発にもらえて驚いた。しかし、この人たちが支援を使うわけでもない。
 自分たちの理念に共感してくれる当事者だけが使ってくれたらそれでいい? そんな特定の人が強く支持しているだけのNPOになって、本当に地域や社会を変えられるのか? ジリ貧の未来しか見えない。
 理念と経営の両立に悩んでいる、なんて抽象的な説明ではおさまらない複雑な話。少なくとも、大した理念がなくとも経営として成功していける「障害福祉サービス」への虚しさとそこに群がる事業所への嫌悪感は増すばかり。もしかすると、今日通ったらしい自立支援法改正案でさらに加速するのかもしれない。しかし、その新しい事業体系へと向かう流れに乗らなければ、結果的につぶされるのはおそらく自分たちなのである。この悔しさがなんとなくわかっていただけるだろうか。