泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「障害」という言葉を使わないようにしてみると

 新事業がらみの動きが続いている。毎日新しい発見が多すぎて、やりがいはあるが、精神的に高揚した状態が続くのは疲れるので、法人ホームページの更新などして、意図的に少し気持ちを落ち着けたりする。
 今さらながら「障害とは何か」とか、「なぜ『障害』の概念は必要とされるのか」とか、ものすごく考えさせられている。
 この3週間ぐらい「障害」という言葉をほとんど使わずにしゃべっている。事業の説明をするのにも全く使わない。面接中も使わない。
 この言葉にいい印象を抱けない人と話すことが多いからだ。これまでは印象の良し悪しに関わらず、相手も自然に使っていることが多かった。ここ数日に話している相手は違う。誰も使おうとはしない。
 今のところ、うまくいっている気もするが、正直めんどくさい気もする。だんだん慣れてきた気もする。
 少なくとも、しばしば障害学界隈で言われるような「『障害』は社会にあるのだから、気にせず使ったらいいのだ」という主張は、ほとんど意味がない。そんな説明で納得できるのは、限られた条件のもとにある人たちだけである。いま、自分が関わっている人たちには全く通用しない。
 この言葉を使わないことで築ける信頼関係がある。それはもしかしたら大切なことから目を背けているのではないかとも疑ってはみる。しかし、この言葉を使わなくても、その子どもが何に困っているのか、は調べられる。何が得意で、何が不得意なのか、は言える。その子どもにとって必要な支援が何であるのか、も言える。
 一方で、この言葉を使わないと、支援の必要性を感じられない人たちもいるだろう。たとえば学校の先生に向かって「すべての子どもたちがそれぞれに必要な支援を得られる教育」を叫んでみよう。学校にはいろいろな子どもたちがいる。得意科目や苦手科目がある。友だちがうまく作れたり、作れなかったりする。ほめられることで伸びる子もいれば、叱られながらできることを増やせてしまう子もいる。新しいことにチャレンジしたがる子もいれば、慣れないことに消極的な子もいる。子どもはひとりひとり違うのだから、みんな異なる支援とか教育とかが必要なのだ。「多人数のクラスでそんなの無理に決まっている」とか「余裕がない」とか言われてしまうのであれば、「この子には障害がある」といってしまったほうが手っ取り早く関心を向けてもらいやすいかもしれない。
「この子は特別である」から支援されるのか、「全ての子どもが特別である」から支援されるのか。後者であってほしいと願うが、そこに至るには全社会的な努力がいる。ちっぽけな「障害者福祉」とか「特別支援教育」の中ではどうにもならない。だから、実践としてはずっと大きなものに立ち向かわなくてはならない。すると、支援者は現実的に簡単なほうを選ぶ。目の前の子どもに必要な支援が今すぐなされるように、子どもを「障害児」にする。ラベリングと責めるのは容易いが、それで達成されていることもあるのだろう。
「障害なんて社会的に作られたもの」「世の中みんな障害者」・・・、さまざまなフレーズが「運動」や「政治」によって戦略的に選ばれてきたし、これからもそれは同じだろう。「発達障害」は、いまどのように語られるべきタイミングにあるのか。支援現場での選ばれ方は「運動」以上に複雑であるに違いない。自分としては「障害」を用いずにどこまでいけるのか、試みるつもり。