泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

1日250ページビューの無力感

 たぶん明日、通算50万ページビューを超える。
 このブログをはじめて5年4ヶ月ぐらいである。それでやっと50万。1日平均なら250ぐらい。
 無力だなあと思う。
 誰も読まないような論文をひっそりと紀要等に投稿したり、利用者しか読まないような法人ホームページに思いのたけをぶちまけたりするのと比べれば、これでもまだ発信できているほうなのだろうとも思うけれど。あまりにささやかだ。
 この国の障害福祉にとって大切なことを伝えられているだろうか。
 いったい誰が読んでいるのかもよくわからない。
 関係者なのか。偶然の通りすがりの人々なのか。
 共感的なのか、批判的なのか。
 自分が言いたいようなことを、誰か偉い人が主張してくれているようには見えない。だから、せめてもの努力として書かなきゃいけない。ムダかもしれないけど。
 しかし、最近はろくな記事が書けていない。日常の愚痴ばかりで。発信するというのはエネルギーがいる。日々、疲弊したらそんな余裕すら無くなる。ましてや「運動」に加わるような力はない。何が起きても子どもたちの支援が継続していけるような組織の形を考えることが最優先になっている。他の職員なんて、目の前の支援を1件1件こなすだけで毎日が過ぎていく。
 以前に、自分の意見を表明するのが難しい人たちのことを当事者主体の中でどう考えるかについて、なぜ議論されないのか、と書いたら、コメント欄に「議論しろ、という人がいないからでは? する必要がないものは、されなかったとしても何の不思議もない。議論しろ側の人がハンストやデモを粘り強く行なっている、という話は寡聞にして聞きません。街でも見ない。論ずべきものを論ずるように働きかけるのが「政治」というものではないでしょうか。国民主権はどこにいったのでしょう?」とご意見いただいた(http://d.hatena.ne.jp/lessor/20100607/1275931600)。
 議論と言っても運動と言ってもよいが、それは誰にもできることではない。自分の関わる子どもたちの保護者は、みんな普通の暮らしを送るだけで精一杯である。支援者にも毎日遠慮だらけ。行政や福祉センターの職員にちょっとした申請や頼み事をするだけでもスムーズにいかずに落胆している。自治体等の会議に加わろうものなら、がちがちに固まって何を話していいのかもわからない。傍から見れば、あんなこともこんなことも困っているはずなのに、うまく言葉にならない。「私」を主語にしてすらうまく話せない。地域の多くの同じ立場の者を代表して「私たち」のことを話すように求められたら、ますます話せない。パブリックコメントを求められても、文章を書くことなんて日々の生活ではほとんど存在しないから、あっさりあきらめてしまう。
 そういうのが、自分の周りにいる当たり前の「当事者」の姿である。さまざまなアクションを起こせるのは、それを可能とする条件をいくつも整えられた人々であり、圧倒的な少数派である。だから「当事者」に向かって「声をあげろ」というのは、しばしば暴力的だ。本来は、声の大きさに関係なく「聞いてまわる」べきなのだ。ひとりひとり、丁寧に。できうる限り。
 自分は支援者として、そうした人々のアドボケイトをすることもあるわけだが、田舎の狭い狭いネットワークの中で立ち回るだけである。そこでも無力さは、ある。聞くだけしかできないことは山ほどある。話は聞くが何もしてくれない人として失望されることもある。
 こうして疲弊した支援者たちのアドボケイトは誰がするのだろう。