泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

・昼間は子どもたちと学生スタッフたちとカレーづくり。大量の調理器具を洗って過ごす。
・それからガイドヘルプ。公園をはしご。周囲の子どもたちに適度にかまってもらいやすい障害程度とか年齢というのがあると思う。この子はどんぴしゃ。
・夕方から熱が40度ある子どもといっしょに過ごしたので、明日以降のわが身がやや心配。それにしても、小児科の休日の診療ってもうちょっと何とかならないものか。平日と休日で病気にかかる確率が違うわけでもあるまいし。
・小学校の林間学校で人手が足らないからって、保護者に付き添いを求めるのはいったい何考えてるのだろうかと。人を出すことはできないわけじゃないし、本当にどうしようもなければ子どものためならば、ボランティアでだってなんとかするけど(もちろんまずはちゃんと金くれって言う)、保護者に「頼ませて」終わり、にはさせまい。学校か教育委員会の偉い人にしっかり頭を下げにきてもらわないと。
・少し論点は変わるが、こんな現状にもかかわらず(あるいは「こんな現状ゆえにこそ」かもしれない)「地域の学校に行くのが『基本』で、特別支援学校に行くのは『例外』」みたいな論調が、国の中央で議論する「当事者」の中では強まっているのである。「基本」とか「例外」とか言う言葉を議事録で見たとき、本当にこの「当事者」の人たちは何を考えているのだろうかと思った。
・「当事者」が「私は養護学校に無理やり行かされて不快だった。養護学校なんて無くていい」と言ったらどうだろうか。それは「当事者」の意見だろうか。「私」の意見だろうか。
・「私」を主語に語り続けるのでは力にならない。だから、たくさんの似たような思いをもつ私が集まって「私たち」になる。しかし、そこで「私たち」とは誰のことだったのか。「私たち障害者は」と語れるのは誰か? 「私たち男は」「私たち30代は」「私たち非モテは」は、そんなに普遍的だろうか。
・政治というのは少なからずそのような抽象や飛躍を避けがたく人々に強いるものなのだろう。しかし、自分はそこに不信感を覚える。最初から最後まで「私たち」の範囲を明示しながら語ることはできないのだろうか。それが、他にもいるかもしれない「私たち」に対する誠実さだと思うのだが。
・そんなことを考えていたら、テーマは違うのに似たような構図が。こんなふうに見ると、これは今の政治にとって非常に本質的な問題なのかもしれない。