泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

 カゼはずいぶん治ってきた。相変わらず市販の薬はほとんど効いた気がしないけれど。
 養護学校がなぜか地域の小中学校より6日も早く冬休みに入ったため(この日程はいったい誰が決めているのか)、例年よりも「年末」が長い気がする。
 年末は月末でもあり、1月の需給調整が佳境に入っているため、職員は今夜も夜中まで仕事である。他事業所が前月の10日とか15日までに利用希望を出すように求めるのに対して(多くの事業所が「緊急時は例外」と言うけれど)、うちは月末ぎりぎりまで利用希望を受け続けるため、余計に職員の負担は大きい。しかし、「一ヶ月以上も先の予定はわからない」という保護者たちの主張も自然な話である。使い勝手のよい事業所であることと、無理のない労働を両立させるのは難しい。苦しい。
 話は変わるが、地元の子どもたちが多く行っている「療育」機関を見学してきた。
 1日見ただけで評価するのはよくないだろうと思い、2日見てきた。
 ほとんど保育所の延長だった。ただスタッフがマンツーマンに近い形でついているというだけで。たぶんあちこちの保育所から加配の保育士を集めてきたらこんなプログラムをするだろう、という感じ。
 特に障害特性に配慮されていることもないコミュニケーション。視覚優位への配慮もなく、ホワイトボードに子どもとスタッフの顔写真が貼られているのみ。スケジュールは市販品のカードが部屋の隅に貼られているが一度も参照されることなく、時間が経過してもはがされることはない。自立課題もない。不用意な声かけと環境の変化。傍から見ていても、何に子どもが混乱させられているかがわかる。職員さんたちのレベルは、たぶんうちの学生スタッフと同じくらい。
 数ヶ月前から先駆的な取り組みで定評のある療育機関でも何度かセッションを見学させていただいたため、そことの落差がすさまじい。もはや「療育」を自称することには何の根拠も必要ないのだ、ということがはっきりした。にもかかわらず「療育」のための障害福祉サービスとして「児童デイサービス」が成立しているという奇妙さ。事業所が「療育だ」といえば、それは「療育」なのである。
 そんな「療育」であっても、比較対象をもたず、内容をじっくりと見る機会も与えられない保護者にとってみれば、特に不満も抱かれない。さらに地元の保健師からも「あそこの療育はちょっと・・・」みたいな話も聞かない。たぶん「これが普通」なのであろう。
 さあ、次年度、どこから手をつけていくか。やりがいはある、はず。