泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

執行猶予に「障害者」は何を思うだろう

献身介護の夫に猶予判決=「再発防ぐ」と保護観察−妻殺害未遂で裁判員裁判・山口(時事通信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090909-00000081-jij-soci

 寝たきりの妻(60)を殺害しようとしたとして、殺人未遂罪に問われた無職岩崎政司被告(63)の裁判員裁判で、山口地裁(向野剛裁判長)は9日午後、懲役3年、保護観察付き執行猶予4年の判決を言い渡した。被告と妻の関係を重視し、再犯を確実に防ぐには保護司などの指導が必要とした。検察側は懲役4年を求刑し、弁護側は懲役3年、執行猶予4年が相当と訴えていた。
 事件の実質審理期間は半日で、これまでの裁判員裁判では最短。執行猶予と保護観察を付した判決は、同日午前の神戸地裁に続き2件目。
 罪の成立に争いはなく、被告は「長年の介護に疲れ、楽になろうと思った」と供述しており、量刑が注目されていた。
 判決は「人一人を殺そうとした事実は重い」などと被告を指弾。一方で、「真摯(しんし)な愛情から13年に渡り妻を介護し、疲労が蓄積していた」などと被告に有利な事情も考慮した。(後略)

 先ほど見たニュースでは、執行猶予がついたために、ずいぶんと「市民感覚の判決」みたいな評価がなされていた。
 障害児者に関わるものならば、保護者が障害をもつ子の命を奪った悲惨な事件を思い起こすだろう。それは、当事者運動のひとつの原動力でもあった。「私たちを殺すな」と。過去の話では片づけられない、今でもありうる話である。
 加害者に対して共感・同情して、執行猶予をつける。裁判員制度でなくても同じ結果だったかもしれない。ただ、「裁判員による判決」として社会に伝えられることの影響は、従来の司法制度と同じではないだろう。
 裁判員たちの「市民感覚」は何に向けられたのか。罪を犯してしまった「介護疲れの家族」に向けられたのか。「介護疲れの家族」を生んだ介護制度の不備に向けられたのか。記事を読む限り、前者のように思える。その昔に行われた(そして、当事者による強い反発を生んだ)「減刑嘆願運動」にも似たものを感じてしまう。いや、もしかしたら記事に反映されていないだけで、加害者を追い込んだ社会にも「市民感覚」は向けられていたのかもしれない。どちらにしても、新聞やテレビにおどる言葉は同じだ。懲役が○年、執行猶予が○年。だからこそ、注意深く判決の内容を見なければならないのだろう。
 それでも、である。司法にたずさわる一部の者ではなく、一般市民から選ばれた「裁判員」が「執行猶予」をつけることの意味は何か。加害者が「社会」とも言いうる事件で執行猶予をつけることは、自分を代表させた社会を免罪することにもなりかねないだろう。「自分も介護に苦しむかもしれない」「そうすれば、同じ過ちを犯さないとは言い切れない」だから「執行猶予」そして「保護司」。このとき赦されているのは、いったい誰だろうか。
 地域社会のレベルで見れば、悲惨な「事件」が起きたことが契機となって、支援の仕組みが生まれることはある。孤独死の事例から住民相互の見守りを強めようとか、障害児のきょうだいが荒れてしまった事例から「きょうだい支援」が進められたりとか、まさに「市民」レベルで同じ悲劇を繰り返すまいとする。
 裁判員制度の「市民感覚」はいかようにして次の悲劇を防ぐのだろうか。それはもはや司法の課題でないというなら、国レベルで介護制度を反省させる契機はどこにあるのだろう。それが見えないから、この判決と報道は少し不気味である。