泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「義務教育じゃないから」は理由になるのか?

 一部のブログで少し前に話題になっていたテーマ。「知的障害者を高校に」の話題について。
知的障害者も普通高へ
http://mytown.asahi.com/ehime/news.php?k_id=39000000901160002
 報道があってすぐから、「高校は義務教育じゃない(から、行けるわけないだろ)」というコメントがあちこちで見られたことにうんざりしつつも、簡単な話じゃないしなあ、と何も書けずにいた。
 ・・・のだけれど、その関連の中で以前に自分が書いたものを引用していただいたようなので、思うことを少し。
で、自分の思うこと
http://d.hatena.ne.jp/satomies/20090125/p1
 その愛媛の「家族会(正確には「家族と理解者の連絡会」)」が、なぜ「子どもを普通高に通わせたい」と思ったのかについての理由は、記事からは十分に読み取れない。だから、推測の占める部分が大きくなってしまう。
 少し関連記事に目を通す限り、多くの人のイメージする「理由」は、こんな感じだろうか。
・健常(定型発達)者との関係性が本人にとって価値がある、と思っているから。
・健常(定型発達)者にとっての障害理解につながり、そのことが知的障害をもつ人(や社会全体)に対してプラスに作用すると思っているから。
養護学校に行ってしまった後の進路に不安をもっているから。
 正解は知らない。マスメディアはそういうことを明らかにしようとするのが仕事だと思うが、記事読んでも全くわからない。ただ、これらのうちのいずれが理由であっても、ごく自然な期待や不安だろう。こうした心情を抱くことを「責められる」人が果たしているのだろうか?
 おそらくみんなそこを責める意図はなくて、「普通高」をその目的を達成するための手段として用いるべきかどうかが論点なのだ、と言うだろう。「学力がついていけないのに、進学はおかしい」とか「別枠で合格にしたら、不合格になった者との間で不平等だ」とか。
 しかし、よく考えてみてほしい。ならば、小中学校の「特別支援学級(障害児学級)」はどうなんだ、と。
 当然ながら、「特別支援学級」の子どもたちの多くは、「普通学級」の授業にはついていけない。だから、同じ学校内の別の教室で学んでいる。そんな「特別支援学級」の存在が認められているのは「義務教育だから」なのか?
 「学力が足らない者はいっしょに勉強できない」が、でも「義務教育だから学校に行けないのはおかしい」のだとしたら、普通学級の教育についていけない者はみんな「特別支援学校(養護学校)」における分離教育でいい、ということになる。しかし、現状は違う。この点に疑問をもたずに、小中学校のことは問題視せずに高校だけを目の敵にする人たちがいるとしたら、奇妙である。世間の大人たちは「受験で苦労した経験」が根深いのだろうとも思うが、少なくとも「学力的に全くついていけなくても同じ学校の中で勉強している」状況は、ずっと古くから教育システムの中にあることを忘れてはならない。
 そのことを確認した上で、「お前は知的障害者の普通高進学についてどう思うか?」と聞かれれば、それは「一概には言えない。ただ、特別支援教育のシステムが普通高校まで十分に及ぶことが前提」としか言えない。
 ひどく間抜けな答えだが、多様なケースが想定されてしまうので、このようにしか答えようがない。例えば記事中にあるように「中学時代の仲間がいる地元の普通高校へ通わせてあげたい」と言える地域は限られるだろう(自分は名古屋市内の公立中学→公立高校だったが、中学の同級生はほとんど同じ高校にいなかった。郡部で仕事をはじめてわかったことだが、郡部はずいぶん状況が違う)。その他にも、親の「統合」への意向ばかりが尊重されて本人にとっての負担になってはいないか、とか、教員の専門性はどの程度か、とか、小学校or特別支援学校の選択の際に悩む課題は、多くがそのまま当てはまる。学校選択の問題は、いつだってどこだってケースバイケース。
 本人にとってのメリットがあるのかという主張に対しては、「ありうる」と思う。知的障害が軽度の特別支援学校生(高等部)にとって、ロールモデルとなれるような同世代は非常に大事だと思う。「軽度」ゆえに背伸びもしやすく、マスメディアに流布された「今どきの若者」像がそのままモデルとされる言動が増え、トラブルが生じやすい世代である。「メディアリテラシー」とか「性教育」とか学校もいろいろ考えるが、自然体の高校生と多く接することができれば、学べることは多いはずだ(もちろん地域の学校であっても、それを実現させるために求められる力量は相当に高いものだろうし、失敗すれば逆効果にさえなりうることも言えるが、特別支援学校生のみの閉じられた関係の中で、偏った高校生像が増幅していくのを見ていると、十分に可能性は見出せるとも思う)。法人の活動の中で、高校生や大学生のボランティアと軽度知的障害の高校生が取り結ぶ関係を見ていると、そう感じる。
 ただ、普通高に入学して、本人の力に応じた教育が受けられたり、生徒間の望ましい関係性が構築できたとしても、進路や就労のことまで考えると、それはかなり多くの関係者を巻き込んだ重点的な支援が必要になる。特別支援学校は自分のところの生徒の就労先の確保でさえ、相当に苦労している状況である。地域の小中学校への支援にも積極的にはなってきているが、就労までとなれば相当な連携が必要だろう。まあ、誰かが入学という壁を「突破」しないことにはシステムもついてこないと思うので、あらかじめ用意してというのは難しいだろうけれど、誰かがきちんと準備は進めていかなければ。
 「で、受験はどうするんだ?」と聞かれれば、ぶっちゃけ「そんなの、どうだってよくない?」。
 自分の通っていた高校には、職業訓練的な意味合いの強い「専門科」みたいなクラスが学年にひとつだけあったり、定時制があったりして、それぞれ偏差値や受験の難易度には大きな差があったけれど、それを「おかしい」という者は見ることがなかった(いくらかの差別的なまなざしはあったと思うが、「排除せよ」という主張は聞かなかった)。同じような高校は世の中に山ほどあると思うけれど、そんなに非難の対象になっていたりするのだろうか。「学歴」と結びつけて考えるから、奇妙な「不公平感」が生まれているだけだろう。
 どこで学ぶか、よりも、何をどう学ぶか。それは障害の有無を問わず同じはずなのだけれど。純粋にそれだけで考えられなくする要素が多くなりすぎているのが、この国の教育システムの特性なのかもしれない。