泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

障害学と社会福祉学の架橋?

障害とは何か―ディスアビリティの社会理論に向けて

障害とは何か―ディスアビリティの社会理論に向けて

 障害学関係者には「お前まだ読んでなかったのか」と言われるだろうが、ずっと積読だった。分厚そうだなー、読むのに時間かかるんじゃないかなーと思って、そのままに。読み始めたら、全然そんなことなかった。読みやすい本だった。
 出版後、どんな書評が出ているのかわからないが、たぶん批判的に読む人は多いんじゃないかと思う。杉野昭博は『障害学』の中で社会モデルの多様性を示したのち、こう書いた。

それぞれの障害理論が異なるのは、社会変革をめざす上で、差別禁止法を利用するのか、医療制度における患者主権を徹底させるのか、あるいは、資本主義的経済価値を修正するのかといった政治的選択や実践戦略の違いであって、社会変革のための運動の支持層をいずれに求めているかの違いが色濃く反映しているように思う。(92ページ)

 障害当事者と呼ばれる人々が、特定の戦略を推し進めさせるために活用してきた点に障害学理論の意義を認めるとすれば、この本は「バランスがとれすぎている」。「個人」か「社会」の単純な二分法を選択しない。障害の生成を制度的にも非制度的にも捉える。読みながら細かい点でひっかかる部分がありながらも、全体としては「まとまっている」印象を残して読み終わってしまう。社会に対する怒りも嘆きも感じさせないまま。
 「あとがき」にも書かれているように、著者自身に「当事者」としての違和感があるそうなので、そうした個人的経験が色濃く理論構成にも反映されたと見るべきだろうか。その結果として、自分が強く感じたのは、社会福祉学(あるいはソーシャルワーク研究)への接近である。それが著者の望むところなのか、障害学関係者の望むところなのかはわからない。おそらく障害学関係者にとって「社会福祉学」はあまり好意的に向き合える相手ではないだろう。それでも、ここで書かれているディサビリティ理解は、ソーシャルワークにおける「生活モデル」に接近しているように思う。
 解決すべき生活問題を、抽象化された「社会」においてではなく、特定の個人とそれを取り巻く環境の相互作用において生じるものとして理解するのは、社会福祉研究、ソーシャルワーク研究の王道である。それを「障害」との関係で深めたという点で、障害者ソーシャルワークの理論枠組みにもたらす成果は大きい。また、社会的排除論の一部と結びつくであろう主張も見られ、障害者福祉に限らず社会福祉一般への理論的含意も大きい。
 と、たくさん評価できる点があることを認めた上で、社会福祉学の勉強を積んだ自分としては「障害学」らしさを期待して読んで、少し肩透かしをくった感じ。なお、著者が障害学における「当事者性」の(不)可能性について以下の本(9章)で論考しているあたりに、やっぱり自分と同じような反応が他からもあったのかな、という気がする。

“支援”の社会学―現場に向き合う思考

“支援”の社会学―現場に向き合う思考