泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

分配が変えられたとして

 昨夜の朝生のテーマは、「新しい貧困」。風呂に入ったりしながら、7割ぐらい見ていた。論争の中で「社会的排除」なんて言葉もちらちらと出ていたが、従来の貧困との違いは明示されたような、されていないような。
 相変わらずテーブルの左右に分かれて対立が煽られるわけで、基本的に支持する社会政策の方向には違いはあるのは間違いないけれど、司会が民主党議員に迫っていたような「自由と平等のどっちを選ぶか」なんて論点が中心になっているとは思えなかった。自由主義経済そのものを否定している論者なんていなかったし、「新しい貧困なんて知ったこっちゃない」という者もひとりもいない。パイは大きいほうがいいけれど、大きくなっても状況が改善されないならば、どこで分配を変えるか、という話。仕事ができないのにたくさん貰っている中高年から若い者に配分しろとか、社会保障でカバーしろとか、最低賃金上げろとか。
 話がずっとすれ違っているというわけではなくて、双方からいろいろと案は出るし、ときには同意されたりもする(決して、取りまとめられることはないが)。明確に衝突するのは「社会のせいにするな」という「自己責任論」みたいなものが誰かから出されたとき。「若者はガッツがない」っていう客席の中年もいた。まあ、この人にとっての解決策は「若者がガッツを出せば大丈夫」なのだろう。自民党議員からは「スキルを身につけろ」もあった。スキルによって十分な賃金が得られるなら、看護師とかヘルパーとか、さぞかし安定した仕事に違いない。最近「再チャレンジ」とか言わなくなったが、ぜひとも新しい貧困層にヘルパー研修の受講など勧めて「これであなたも高収入のチャンス」と教えてあげてほしい。低所得にあえぐ若者を今以上に増やすこと請け合いである。
 それにしても、なぜこれほどまでに話がまとまらないのか。司会の(確信犯的な)舵取りに問題があるばかりではなく、相対的な「右」陣営の側に、表立って主張されないところでやっぱり「ガッツ論」「スキル論」が前提されているような気がしてならない。あるいはもっと漠然とした「お前ら、イケてないんだよ」的な自信に満ちた態度。「過剰に被害者意識もちすぎなんだよ」という失笑。そして、「左」陣営はその雰囲気から同情や憐憫を感じ取って、余計に反発する。この番組には、しばしばそんなムードがある。
 仮に、左右の立場を超えて、部分的にでも分配の仕組みが変えられたとして、その過程でこの種の感情的なわだかまりはどう処理されていくのだろうと思う。実際のところ、大変に優秀な人材ならば、実際にスキルやらガッツやらに支えられて、登り詰めることができるだろうから、再分配で救われる者には「自分がもっと優秀であったなら」という自責の念が残るかもしれない。これは、生活保護などで古くから指摘されているスティグマとも少し違う気がする。
 一方には、「世の中みんな自分たちみたいに優秀じゃないから、しょうがねえよ」と思い、「優秀じゃない者の間でバランスをとろう」とする人々がいる。ここで、優秀じゃないのにもらいすぎている者がいることは問題視されている。しかし、「そこと自分はいっしょにされることはない」という自尊心は満たされたままだ。
 試しに「負け組」新自由主義者と「勝ち組」社民主義者ばかりで議論させたらどうなるのだろうか。上のような感情を抱かせることなく、議論が繰り広げられるのだろうか。そもそも「勝ち組」社民主義者はともかく、「負け組」新自由主義者っているのか(追記:ブックマークコメントでも書かれているけど、よく考えたら、小泉元首相の支持者とかにたくさんいるはずだ。ただ、自分たちの業界には希少だと思う。そのことをどう考えるか)? もしいないのだとしたら、経済思想とか政治思想って、結局のところ個人が経験的に自分(や自分と似た境遇の人々)に好意的なものを選んでいるに過ぎないってことになるのだろうか。それってひとつの社会政策を決定しなければならないときに、けっこう困ったことなんじゃないかと思うのだけれど。
 全く不勉強なので、ひょっとしたらものすごく初歩的でくだらないことを書いているのかもしれない。眠れないので、勢いで書いた。