泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

知識格差が招く排除

 少し前のことになるが、同じ日に職員2名が別々の研修に行ったのである。
 ひとつは保育、学童関係者向けの「発達障害ってこういうものです」的研修。もうひとつは最近少し流行りかけのPECS二日間研修。ちなみに前者は無料だが、後者は50000円(いくらなんでも高くないか)。
 どちらも大盛況である。前者に行っていたのは自分だが、定員の倍ほど来ていた(もはや「定員」の意味がわからないが)。後者は施設や特別支援学校関係者でにぎわっていたらしい。
 しかし、レベルがあまりに違いすぎるのだ。
 保育者向けのほうは、ほとんど入門書に書かれているぐらいのことしか話されていない。重点的に話すポイントに工夫はあるが、狭く浅い内容だ。しかし、2時間の講義の末、質疑応答で「いったい2時間の間、何を聞いていたのか」という質問や感想が次々出てくる。講師が頭を抱えながら回答する状況だった(講師は知り合いだったので終了後「(こういう人たちといっしょに仕事しているのだったら)大変だね」と同情してもらえた)。
 かたやPECS研修のほうは、有名な話だが、そこで聞いてきた内容を誰かに教えることすら許されない(1/22追記:これは不正確な表現でした。関係者の皆さん、申し訳ありません。コメント欄のAFCPさんとのやりとりをご参照ください)。正確な知識と技術が必要で、いい加減に断片的な伝達をされては困るということだろう。受講してきた職員によれば、かなり条件がそろわなければできないとのこと。人員的な環境とか他機関との連携とか。
 これほどまでに知識格差が大きくなっていく中で、両者が協働するわけである。専門知を実につければつけるほど、支援者の現場での仕事は苦しくなっていくんじゃないだろうか。特別支援学校や閉ざされた施設はいいだろうが、地域社会の中で尽力しようとすればするほど、孤立感は強まるだろう。「そんな特別なことをする力量は私たちにはない」と言われれば、「偏見」や「差別」ではなく「私たちの力の無さ」という「謙虚な」理由をもとに排除が進む。これはタチが悪い。
 その意味で、さまざまな技術を「教える・伝える」立場の人々には、相手の力量を判断しながら話をしてほしいと切に願う。「あきらめる」という選択肢をもちうる人に「無理だ」と思わせてしまったら、それでおしまい。