泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

歪まされる研究

 社会福祉の大学院というところは、多様な立場の者がともに研究をする場である。後輩と言っても、人生においては大先輩であったりする。その後輩もそうだった。現場での経験は長い。現場で重要なポストを担うところまで働いた人だ。豊かな実践経験を手に、研究の世界へと移ってきた。すでに某所で学生に社会福祉を教えていたりもする。
 現場で長らく仕事をしてきた方なので、研究の実証的な正しさが現場での有用感に結びつかないことを痛感しており、そうした問題意識を春先には発表で語ってくれていた。これからどう展開させていくのか興味深いと自分は思っていた。
 そして、先日、発表があったのである。しかし、そこで出てきた博士論文の構想は、常識の部類に属すると思えることを、厳密な統計手法を用いて明らかにしようとするものだった。自分は率直に批判した。ここから何も新しい知識は生まれない。現場で長く仕事をしてきた人が、この内容を本当に明らかにしたいと強く望んでいるとは思えない。春先の発表で話した問題意識はいったいどこへ行ってしまったのか、と。
 後日、メールが届いた。大まかには以下のようなものだった。
・期待を裏切って申し訳ない。
・研究者へと転進したが、経済的にも苦しく、厳しい環境から抜け出したかった。
・査読を通過できるものを書くために、権威ある人に薦められた方法を用いることが必要だった。
・純粋な問題意識は放棄することにした。
 以上。原文はもっと遥かに悲痛である。
 研究者を志した以上、研究の方法を洗練させていくことは重要に決まっている。しかし、やはりこう言わざるをえない。実証研究ばかりを奨励している(と自分には思われる)社会福祉研究業界全体の流れは誤っている。実証研究が誤っているというのではない。「なぜ実証すべきなのか」を未来ある研究者に正しく伝えられず、何かを実証せねば将来のポストが得られないという恐怖に追い込んでいるという意味で、大きく失敗している。こんな事態を求めて提唱されてきた「実証」ではないはずである。もっと多様な研究の可能性が、伝えられねばならないし、認められねばならない。この後輩は十分な文献研究もできており、考察も深められている。「教員」として、すぐれた実証研究者より、ずっと豊かでリアリティのある話もできるだろう。しかし、「実証研究をしていない」から「科学的ではなく」、よって「すぐれた研究者とは認められず」、「大学でのポストも得られない」。それで、社会福祉を学生に教えていかねばならない大学はいったいどのように良くなっていくのか。
 「実践の科学化が重要だ」などというよりも、「実証しないと、金がとれないんだよ」とか言うほうが、まだ誠実である。もっとも、それも現実の政治の中では大いに疑わしいと思っているが。