泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

 法人として、クリスマス会を乳幼児向け、学齢期向け、成人向けと3回実施。女子学生のサンタ姿をよく見た1週間だった(男手が足りないため)。
 集団での活動を企画するのは、いつも子ども相手のものが中心で、成人向けにやることは少ない。成人の支援はもっぱらガイドヘルプや行動援護などの個別的な支援である。それでも、集団には集団のよさがあるわけで、昨年度から少しずつ頻度を増やしつつある。
 そこでは、参加する側にとってみれば、学齢期に参加していたような内容のことを、ずいぶん久しぶりに行うことになる。すると、支援者の立場から何がわかるか。残念なことに、学齢期のころに持っていた力の一部が大きく失われてしまっている、ということである。それは保護者の口からも聞かれる。学校を卒業してから、あれができなくなった、これもできなくなった。もちろんすべてにおいてではないが、やはり学校の力は大きい。一方で、こうした現実を養護学校の教員などは、どんなふうに捉えるのだろうか、と思う。養護学校でも卒業生の同窓会など開催されることがあり、教員の口から「以前よりできなくなっている」という声があるとも聞く。教員は学校にいる間しか生徒と深く関わることができないことに、もどかしさを感じているのだろうか。
 今日は、今年度2度目の院ゼミ発表が終了。これでしばらくは仕事のみに没頭できる。
 しかし、担当教授は自分で指導をすることが難しいと考え始めたのか、「投稿したら、適切な査読者に読んでコメントをもらえるから」と言って、すでに渡してあった論文にはほとんどコメントなし。院生どうしの議論は全く活発にならないし、自分はいったいこれから誰にどうやって指導を受けていったらよいのだろうか。発表しながら、なんて穴だらけなんだろうと自覚しているのに、誰も問題点を指摘してくれない。この環境はつらい。特に社会学の独学がつらい。ルーマンわからない。こんなに解説書が出ているのにわからない。
 今日から養護学校は短縮に入った。今年もあとわずか。しかし、そのわずかな期間は多忙を極める。