泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

読み終わった

 某先生の未発表稿読了。面白かった。障害学におけるimpairmentとdisabilityの関係についての議論って、フェミニズムにおけるsexとgenderについての議論と重なるなあと、改めて思う。ジェンダーフリーについての誤解と、「社会モデル」に対するある種の批判がそっくり同じ構図におさまっている。
 一読して言いたいことはたくさんあるので、この領域について自分に考えられることはまだありそう。知的障害が社会的に構築されている、ということに限界がある、ということは、もうちょっと疑えるように思う。impairmentの「社会的に構築されているとは言えない」部分がある、ということは、社会モデルによって解消されない問題の大きさを示唆するだろうか。彼ら彼女らは肉体的に「痛い」のではなく、「(周囲から期待されていることが)わからない」「(周囲から期待されるように)できない」ことに苦しむ(精神的に「痛む」)のであって、「わからない」「できない」ということは「社会」とか「環境」との関係の中でしか言えないのではないだろうか(もちろんその中に多様なレベルがあることは間違いないが、その精神的な「痛み」の程度がどのようなものであれ、社会と切り離して考えることは困難じゃないだろうか)。「わからない」「できない」ことがいつも政治や権力との関係で意味づけられるものではないとしても、それが生じるもととなっている「関係性」はやはり残されているように思うのだ。ただ、その「わからなさ」や「できなさ」の責任は誰に問われるべきなのか、という点で、社会モデルの有効性はどこまで言えるのだろうか、ということに自分はずっと悩んでいる。