泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

続・支えたい人々

 夏休み前で子どもたちと学生ボランティアの需給調整タイムリミットが明日であるにもかかわらず、注文していた「飴玉からわたあめができる機械」が届いたがために、職員みんなで盛り上がってしまい、よせばいいのに夏祭りの予行練習。おかげで、こんな時間に。夕飯に棒々鶏スパゲッティを作って食べて、ほっと一息。
 おととい書いたものについて。トラックバックをはじめ、コメントとかブックマークコメントとか、いくつか言及していただいたので、何か書かねばと思う。とはいっても、自分には対立軸も明確には見えていないので(たぶん誰とも対立はしていないと思う)、「地域」と「支援」をめぐっての交通整理というか、何というか。
福祉的言説のコロニアリズム(世界、障害、ジェンダー、倫理☆)
http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20070717/p1
或る苛立ち(いちヘルパーの小規模な日常)
http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070717/p1
両方の「当事者」として(みわちゃんの「猫屋敷電脳日記」)
http://d.hatena.ne.jp/neko-yashiki/20070717#p7
『地域』言説(とみたの大耳・小耳(改))
http://totutotu.seesaa.net/article/48285312.html
おもい(とみたの大耳・小耳(改))
http://totutotu.seesaa.net/article/48383292.html 
 自分が書いたことは「地域に支えられる」というのが、地域の多様な住民に支えられながら生きるべきだ、という規範的な主張になってしまうと、それは「支えられる側」の意思を無視した話であるかもしれないよ、ということだ。共同体が壊れた現代では、「地域」は幻想であり、機能しなくなってしまったから、そんなものに何も期待すべきでない、という話ではない。「地域」というものに、いったい「何」を積極的・消極的に期待するのか、という話をした方がよいと思う。
 「地域」の対義語として、この業界では馴染みの「入所施設」のようなものをイメージするのだとしたら、「地域」は自らの生活を決定していくことが認められる(可能性のある)場所になるのだろう。一方で「地域で支える」というときには「地域=地域住民≒熱意あるアマチュア(?)」が想定されている場合があり、この場合は反対側に「介護職」とか「専門職」が浮かんでくるかもしれない。さらには、「市場」や「公的サービス」では得られないような「友だち」とか「人間関係」を得られる場として「地域」が示されていることもある。だから、議論をしているうちに、どの意味で「地域」を用いているのか、だんだんわからなくなる。
 自分にとっては、「地域」で暮らす、ということは、市場で物を買ったり、公的サービスを利用しながら生きていくことと排他的な関係でない。近所のコンビニやスーパーで商品を買うとき、レジでもたついてしまう障害児と彼に同行したヘルパーの様子を店員が怒らず見守ってくれる、というのを、市場か公的サービスか地域か、と切り分けることはできない。家を知らぬうちに抜け出して近所の書店で立ち読みをしている彼について、「ひとりで来てますけど大丈夫ですか」と家に連絡をくれる書店主は、市場のなかの駒なのか、地域住民なのか、明確な答えはないだろうと思う。市場と無関係な場面でも、たとえば養護学校の地元の自治会の人が子どもたちの登下校の安全に気をかけてくれていたり、犬と散歩中の飼い主が手綱を子ども(犬好き)に持たせてくれたりすることが、無意味だとも無価値だとも思わない。
 地域とかかわりを持たずに生きていくのは難しいし、障害をもつ人々が生活の中で関わる可能性のある人々にはさまざまな顧慮を求めたいと思う。そのために「支える」というよりも「大目にみてもらう」とか「知ってもらう」ということは大事であるし、自分自身も法人でボランティアの受け入れをしていることが「こうした子どもたちの存在を知ってもらう」ためにも役立っていると思っている。ただし「支援することを通じて、知ってもらう」というのは、しばしば手段と目的が逆転してしまい、さながら「知ってもらうために支援の場が作られている」かのようになってしまう。これは反省されないと、おそろしい(もちろん「支援する」ということを除くと、なかなか「知ってもらう」のによい方法がない、というのは非常に悩ましいところではある。これを教育の問題として済むのかどうかもわからない)。
 ひとまず「崩壊した」という地域を再生する契機となるために、社会的に排除されやすい人々はいるわけでない、ということだけはきちんと確認しておきたい。結局、やっぱり交通整理はできませんでした。すいません。