泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

 行動援護。ここ数日、立ちっぱなし歩きっぱなし。ふくらはぎの張りがひどい。
 ゴールデンウィーク中のケアはここまで順調に進んできているが、自分は来週中に学童での大事な会議を控えており、どうも落ち着かない。
 今さらながら、自閉症の障害特性をどう説明するのがもっともわかりやすいのか、とか、学童の中での他児との関わりはどうあるべきなのか、とか、悩みはじめるとなかなか答えは出ない。
 単に場を同じくしているだけではなく、自然な形で障害をもつ子ももたない子も相互に関わりながら育つ場であってほしいと常々思っているし、そのために媒介する大人がいるのだと思っている。それでも、現実は単純ではない。障害をもつ子と関わりたいと思うかどうかは、周囲の子どもたちの自由である。面白いもので、どんなところにも必ず一定の割合で仲良くなる子どもは出てくる。それでも、活発にコミュニケーションを求めてくるのは、ひとつの学童につき、数名である。大多数の子どもは一時的に近づいてくることがあっても、次第にいっしょに遊ぶことの難しさを感じて、強い関心は持たなくなる。それもまた自然な話で、非難されることでは全く無い。
 仲良くなれるとかなれないとかではなく、障害をもつ子どものことを他児がきちんと受け止められるようになることが大事なのだ、と思うこともできる。その成果は確実にどこの学童でもあがりつつある。しかし、それは誰にとって大事なのだろう。障害をもつ子どもの「いま」にとって、大事だというのはわかる。ただ、それならば、障害児ばかり集めて支援者に囲まれた環境でも、最大限受け止めてもらえるに違いない。あえて一般の地域の学童ということならば、もっと大きな目的を持たねばならないだろう。
 障害をもつ子どもがこれから地域で生きていくにあたって、障害理解の進んだ人々が地域に、社会のあらゆるところに必要だ。そのために学童での経験が役立ってほしいと思うことは過剰な期待だろうか。たとえば学童に通う子どもたちが大人になり、どこかで障害をもつ人と接するときに、むかし学童で出会った子のことを思い返して、適切な配慮をしてはもらえないだろうか。その成果は数十年をかけないと見えてこない。事業所のヘルパーやボランティアを育てるほうがはるかに手っ取り早い。だからこそ、この取り組みの価値はなかなかわかってもらえないのだろう(特にごちゃごちゃとした環境の学童で子どもを過ごさせることに否定的な養護学校教員)。
 あれこれと考えるうちに、障害児を社会的に支えるということを意識しすぎると、だんだん「いま」本人が機嫌よく過ごせている、ということに満足できなくなってしまいそうで、それもまたどうなのだろうかと。一方で、社会的に支えるということに関心のない支援者にもうんざりすることが多いので、別に方向転換をするつもりもないのだけれど。放課後の生活の場で、療育的な目標設定をばりばりとやっていくのも強い違和感があるし、何かにつけて多角的な目標をもった「支援計画」を求めるばかりの時流にもなじめない。ああ、すっきりしない。明日も朝からガイドヘルプだし、もう寝よう。