泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

ソーシャルワークの境界

 養護学校の動き方にふりまわされ、疲れている。
 その動きを誘発した子どもの保護者にも、疲れている。
 自分がものすごい精力を傾けてきた事業の内容について、ちょっと小耳にはさんだ程度の教員からケース会議を開くと言われて、きっと軽々しく「もっとこうしたらいいんじゃないか」などと言われるわけだ。教員は地域との連携を謳われた特別支援教育の中ですっかりソーシャルワーカー気取りである。地域の社会資源についての知識なんて、これっぽっちもないのに。しかし、保護者は「養護学校」「コーディネーター」という名前を信頼して、動く。
 こちらは膨大な量の情報を行政との間でやりとりして、行政担当者と何時間も議論をして、ちょっとずつ状況を好転させようと努力しているのに、保護者は「養護学校から行政に対して注意・助言してもらえば、改善する」と思っている。そして、養護学校の担当者もどうやら素朴にそう思っている。こちらは子どものために粘り強い交渉を続けて行政サイドの人事にまで影響を及ぼしたり、障害福祉計画の策定過程で意見したり、意見してくれる保護者をその場に巻き込んだりしているのに。そういえば、障害福祉計画の策定委員会には養護学校の教員も入っていたっけ。議事録を読んでも、何ら具体的な意見はしていないけれど。
 と、書くだけでは単なる愚痴で終わりかねないけれど、これはソーシャルワーカーのような仕事を求められるものが地域の中に乱立してしまっているという構造的な問題だ。相談支援事業に携わるような純然たるソーシャルワーカーもいれば、自分のようなケアワークをしながらのソーシャルワークもあり、そこに養護学校教員、保健師訪問看護師などが入ってくる。それぞれがなんとなく「自分が動くのが適当」と判断すれば、ソーシャルワーカー役を担う。今日は福祉課の職員がまるでケアマネのような動き方をしていた。残念なことに「ソーシャルワーカー」の数は圧倒的に足らず、支援者とケースとの関連も多様である。このあたりでは就学前の子なら保健師や保育士との関係が濃いし、精神障害の方などは訪問看護との関係が濃い。関係が濃いからといってソーシャルワーカー役をすべきということもないはずだが、ソーシャルワーカーの余裕の無さを知っていれば、その機能を代替しようとすることも責められない。こうして異業種がどんどん入ってくることになる。学齢児については、まさに特別支援教育コーディネーターが入り込んでくる余地が出てくる。
 けれども、懸案となっている事項についてほとんど理解できていないのに、個人に対する責任感のみでソーシャルワークをやろうとするのはあまり誉められない。やっかいなのは、自らのもつ専門性を前提としながら、ソーシャルワーク的なプロセスのみを踏もうとするので、自分の専門の中で望む方向にケースを操作しようとするための大義名分としてソーシャルワークが使われてしまうことだ。
 「ソーシャルワークの固有性」が声高に叫ばれていることは多分に政治的な意味を持っており、誰のための固有性なのかとも皮肉りたくもなるが、ぼんやりとした境界に苦しむ現場は増えつつあるのかもしれない。