泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[近況]がんばれない

 なんだか気力がわかない。
 情緒不安定は昔からだし、鬱にも慣れているつもりだけれど、いつも時間が経つことでなんとなく状態が上を向くのを待っているだけ。対策はわからない。
 ちまたに「生真面目で責任感の強い人の気持ちを楽にする方法」について書かれたものはあふれている。しかし、今やどれを読んでも救われる気がしない。学生のころはそうでもなかった。立場が変わったためだろう。
 支援そのものに疲れているというより、支援者のマネジメントに疲れている。だから「ケアする人のケア」とは少し違う。むしろ「ケアを組織する人のケア」の問題。ケア行為とは違う部分で仕事を負担に感じて辞めたいと言われてしまうことへの恐怖。自分にどうすることもできない無力感。組織を強く大きくしなければ、安定した支援は行えないし、自分も安心して働けないというプレッシャー。
 がんばれない状態が続くと、仕事はたまるし、がんばれていない自分が周囲からどう思われているのかとも考え出す。がんばれていない自分に愛想をつかして辞めたいと思われたらとまで想像して、ますます不安になる。完全な悪循環。結局は、どんなに苦しくてもがんばらざるをえない状況に追い込まれていくことで解決されるのだが、この先も一生ずっとこんなことを繰り返していくのだろうか。どこかで力尽きるのではないかとも思う。しかし、たとえ力尽きたとしても、自分の仕事は続く。周囲の誰が力尽きても、自分だけは続く。続けることのできない物理的な条件がそろわない限りは続く。法人がつぶれるか、自分の心身が滅びるかのどちらかである。
 法人や事業所は全国にいくらだってあるが、話題になるのは運営好調な組織を率いる能力と自信に満ち溢れたトップばかり。それを取り上げる側は希望の星としてとりあげるのだろうが、落込みの激しいときはただつらい。モデルにも逆機能があるということ。ここ7〜8年、モデルによる呪縛に苦しむ人を学生や障害児の保護者などたくさん見てきた。「自分にはあんなふうにはできない」と言うのだ。今や自分もその罠にすっぽりとはまっている。そして、それを弱音だとか泣き言だとか言って責め立てる人はいつでもどこにでもたくさんいる。「そのままでいい」とか「自分のペースで」とかいうこの業界ではよく知られた受容的なメッセージも、都合よく場面ごとに使い分けをされる。受容の言葉を向けられることは、いずれスティグマと化すのかもしれない。そのときに本当の救いの言葉はどこかに残されているだろうか。