泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[近況]引き続き鬱

 依然として精神的に停滞。気分転換の方法も見つからないままのガイドヘルプ。請求準備。早めの帰宅。
 読めていない本が山ほどあるのだから、どれか読めればよさそうなものだけれど、今は言葉がごちゃごちゃと並んだものに接したくない。ぱらぱらと詩集など眺めていたが、それぐらいがちょうどいい。
 この数ヶ月、行政職員に向かってデータや理屈を盾にものを言うことばかりしていた。しかし、結果的に見れば大した成果はあがっていない。政治とはそういうものだろうが、実態としては集合的な意思決定というより個人的な意思決定を相手にさせられているような気がして、空しい。それを政治と呼んでよいのかどうかさえ、わからない。
 ・・・こんなことは、先日も書いた。これまでさんざん書いてきた。進歩がない。
 理不尽な現状の中で、信じられるものとはいったい何だろうか。何を頼りに働いたらよいのだろう。
 大した力をもっていない自分は、この数年間、あちこちに頭を下げながら、多くの人に助けられつつやってきた。困ったことがあれば、行政職員にはもちろんのこと、学生たちにも地域のおばちゃんにも関係機関にも頭を下げた。利用者家族に頼ることも多かった。ああだこうだと理屈をこねる以外に自分にできることと言ったら、そのぐらいしかなかった。
 理屈をこねても頭を下げても誰も助けてくれなくなったときに、どれだけ持ちこたえられるだろうか。とりわけ法人の金に関することはそうだ。人手に関することもそうだ。そして何も信じられなくなった自分の精神状態がどうなるのか。想像がつかない。
 電話がかかってきた。明日の利用キャンセルの電話だった。聞けば、非常に近い身内に不幸があったという。
 そんなときこそ支援が必要に違いない。あれこれと支援の形を提案してはみるが、まだ先の詳しい予定が立たないらしく、具体的な調整には入れていない。不幸ごとによる利用は決して珍しくないが、このケースはとても対応が難しい。定型的な支援ではうまくいかないだろう。制度にはこだわっていられない。
 鬱のときでも、少し元気が出るのは、こんなときだ。なんとも奇妙な話である。