泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

おもいきり感情的に書き散らす

 今日も自治体担当職員と話す。さらに嫌な話が出てくる。とても冷静にはなれない。頭を冷やす前に、おもいきり感情的に書く。
 知的障害者児者の地域生活支援をやっている事業所なんて、みんな潰れてしまえばよいのである。無理して運営などすることない。年収200万にも満たない給与で働いている職員が全国にごろごろいる。自分は年収150万だ。お国は、これさえも多いとおっしゃるらしい。まだまだ削れるところがあるのだと。もっと合理的に効率的にやれと。これ以上、削れるものなどないはずなのに、さらにクビを切ったり、給与を下げることで守られる利用者の生活はたしかにあるだろうが、職員の生活はそれ以下ではないか。
 すべてがつぶれて消えてなくなったらどうなるのだろうか。まずは事業者は利用者から責められるのだろう。無責任と言われ、その程度の気持ちだったのかと言われ、運営能力がないと言われ、工夫が足らないと言われるだろう。運営が順調な事業者やNPOも同じように罵るに違いない。もともと福祉の世界は楽に稼げていて、経営センスが足らないのだと。もっと自主財源の確保のために努力をすればいい、福祉の勉強ばかりしていないでもっと違う勉強をした方がいい、福祉系の学生なんかより他の社会体験を積んで来た者のほうが仕事に対して厳しく、しっかり金だって稼ぐことができる云々。
 事業所が血祭りにあげられた後、次に利用者は大挙して自治体にでも押し寄せるだろうか。厚生労働省財務省や国会議事堂を取り囲んではくれるだろうか。もし取り囲んだとしたら、それを世間は笑うだろうか。弱者が吹き上がっているのだと。既得権を守ろうとしているのだと。歳出を削減しなければこの国はやっていけないのだと。もっと他に金をかけなければいけないものがあるのだと。
 あとに残された方法は何だろうか。暴動か、親子心中か。それもちょっとやそっとの規模じゃダメだ。そんなものはこれまでにだってたくさんあった。連日トップニュースや全国紙トップを飾るぐらいでないとダメだ。ワイドショーも情報番組も連日無視できないぐらいでないとダメだ。障害者福祉をネタにすると、視聴率があがり、部数が伸びるぐらいにならないとダメだ。マスコミがこぞってこの国の貧しさを責め、国民みんながセーギの味方となって、障害者福祉に金がつかないなんてけしからんと興奮するぐらいでないとダメだ。暴動はきっと世間に迷惑のかからない形でやった方がいい。国民の怒りの矛先はいつだってお上と金持ちであるから、ターゲットを間違えてはダメだ。心中は世間の同情をひくのにぴったりだが、残念ながらあまり報道されない。衝撃的なやつが必要だ。被害者が知的障害をもっていると報道しにくい、なんていう配慮にマスコミがとらわれていられないくらいのやつでなきゃダメだ。ネット心中で集まって死んだって、今や話題性はない。そんな死に方を選ぶ者も世の中にはいるんだという程度の認識で終わらせちゃダメだ。すぐに事件を風化させてもダメだ。じゃあ、どうすればいい?
 どこにも味方がいない。味方がいない者の逃げ場はどこにあるだろうか。闘いから降りれば、味方なんて必要もなくなる。ただ、空しい。闘いから降りられる者は、降りられない闘いの中にいる者からどう見えるだろう。敵や味方なんて区別をなくしてしまえば、楽になれるかもしれない。誰にも悪意などなく、皆が望ましい社会を目指して必死なのだと思えば、いくらか気持ちは穏やかになれる。誰も敵にまわすことのないあの人はものわかりのいい大人だと思ってもらえるかもしれない。しかし、心の安静が生活を救うわけではない。心は心でしかない。
 苦境の中で現状を正当化させ、自らを納得させることは、ときに容易い。それは大人の思慮か、敵前逃亡か。自分の立場を強固に主張しないことが大人の美徳なのだとしたら、そんなものには憧れない。