泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

ふれあい大好き堀田力

 報道ステーション認知症高齢者のグループホームの夜間単価の安さについて古館から聞かれた堀田力が「納税者の立場からすると、単純に単価を上げるというのはどうか(大意)」「昼間にもっと活動していれば、人間はよく寝るはず(大意)」など、相変わらずの安上がり福祉っぷり。
 あまりにも腹が立つので、無視していた記事にも触れてしまおう。インターネット新聞JANJANのコラム「ふれあい談義」で、堀田は言う。
http://www.janjan.jp/column/0509/0509090250/1.php?PHPSESSID=18f8722bfb90c58de46db158da33f562

本人の自立努力を促すことが堂々とできるのは、実は、家族とボランティアである。愛情と信頼に基づく対等の関係だからこそ、「それはあなたがやれるのだから、私はやらない。頑張ってやってみて」といえるのである。そういう視点からいうと、地域支援サービスは、ボランティアの精神でサービスしている市民団体が受託して行うことが好ましい。 

 ならば、要介護度が高く、特養などに入所してプロの支援を受け続けている高齢者はもはや依存度高まりっぱなしで歯止めがきかない、というロジックになるのか。家族とボランティアしか愛情と信頼に基づく対等な関係が結べないというが、純個人的な関係を結ぶか、役割関係を結ぶか、というのは、関係性の対等さとは全く関係がない*1。プロだから「お客様は神様」になるというのであれば、それはシステムの問題である。お客様を神様にしないプロだって存在する。それがありえないというなら、教育、心理、医療、保健、福祉などの専門職はみんなまとめて否定されることになる。必要な支援を行いながら、本人の依存度を高めないような支援をできる者こそ、プロと呼ばれるのにふさわしい。高齢者の依存度を高めたほうが「儲かる」システムを不問にして、何が家族とボランティアだ。
 「ボランティアの精神」で運営する団体なら、それが解決されるというのもどういうことか。高齢者にとって「ボランティア」だったら、何を言われても納得できるのか。そのとき「ボランティア」と「プロ」を分けるのは何か。それほどに高齢者からの役割期待ははっきりと区別されているのか。「区別できるようにボランティア精神を前面に出せ」とかボランティアに言うのだろうか。それが簡単に言えるのであれば、プロに「望まれることでも、本人にやってもらえ」とだって簡単に言えるだろう。同じ地域住民のひとりとして支援していることを示すために、ボランティアは町名と番地でも入った名札でもつけてみるか。くだらない。
 「ボランティア」にこれができて「施設職員」にこれができないなんていうのは、あくまで理念型なのである。あたかも現実にも普遍的な区別がなされているかのような言い方をするのは、やり方が汚い。多くのボランティア研究はそんな手段として使われるためになされたわけではない。
 だいたい「ふれあい」とか言う奴にはロクなやつがいない(偏見)。

*1:「家族」と「ボランティア」が並列で論じられるのもまるで意味不明。