泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

縦と横の交わるところ

 サマースクール初日。いまだ大学は試験中のために学生スタッフの数は十分でないし、初参加の子どもは多いし、障害はますます多様化するし、なんだか全体としての一体感がもてないまま一日が終わった。落ち着くまでにはもう少しかかりそう。
 養護学校の先生から、子どもに対して配慮に欠ける部分について注意を受ける。大学院で福祉を学んでも、障害特性などについては全く教わることがなかったので、ほとんど独学である。あらゆる福祉系大学院がそうではないだろうが、少なくとも自分の大学院は教授陣の顔ぶれからしてそうならざるをえなかった。障害者福祉を研究対象にしている院生は多くても、アプローチは「ソーシャルワーク論」や「地域福祉論」を介したものとなる。
 しかし、現場に入ってしまえば、「私が勉強してきたのはソーシャルワークです」「地域福祉です」というのは大して評価されない。多くの現場は分野別の縦割りである。このことはソーシャルワーク論や地域福祉論と呼ばれるものの価値をいささかも揺らがせるものではないはずだが、条件つきで実践の指針を示すのではないものを、多くの人々は信頼しない。すなわち、すべてに役立つと言われるものは、何にも役立たないのではないかと。
 さて、知的障害者福祉だからこそ提起できるソーシャルワーク論や地域福祉論はあるだろうか。この分野に固有のワーカーによる対象認識や介入方法がありうるのだろうか。「地域生活支援」なんて言葉もようやく知名度を高めつつあるが、これはどんな枠組みだろうか。ソーシャルワークならば、最近の教科書では構成主義的なアプローチがすっかり最先端扱いだ。一方で、地域福祉論はこまごまとした要素が教科書に付け加わるばかりで、古典的な理論が乗り越えられていないように思える。心身機能の障害と生活問題の相互関係に着目すれば、「トラッキング」とか「組織化」とかいった方法ももっと再検討されてよいと思うのだけれど、それは誰がやってくれるのだろう。やっぱり自分がやらなきゃだめということか。