泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

岡村重夫アゲイン

白澤政和(2005)「岡村理論とケアマネジメント研究」『ソーシャルワーク研究』Vol.31 No.1,30-38.
 この業界なら言わずと知れたケアマネジメント研究の大御所による論文。
 ソーシャルワークの最終段階を分析したものとして岡村理論を評価しつつ、援助過程のすべてを説明できるものではないとして、アセスメント項目から生活ニーズを導き出す過程を「ケアマネジメント論」として検討。
 とにかくすっきりしない。岡村理論が「ソーシャルワーク」という対象の一部しか説明できていないならば、それは理論のベースにある役割理論そのものの問題なのか、単に役割理論による分析対象を狭く設定してしまっただけなのかを考えることからはじめるべきではないか。役割理論やそれと関連する理論による説明を追求することなく、急に独自の語彙や概念による説明になっていくので戸惑う。ところがそれに続けて、「生活ニーズ」は社会資源が選択された時点で岡村の「7つの基本的欲求」に対するニーズになるということも書かれている。あくまで「岡村理論に時系列的観点を注入することにより、その理論は一層深ま」ると言って、「岡村理論」の補完であろうとするので、余計に戸惑う。
 しかも、その後は「ストレングス」ほかカタカナ用語連発。要はアセスメントにおいて、本人や周囲の状況のもつマイナス面ばかりでなくプラス面を把握すべきということなのだが、それを無視した実践がどれほどあるのだろうか。例示されている「指示をすれば洗身、洗髪ができる」「ひとりで入浴したい」「入浴が好きである」「近所に入浴介助に来てくれる子どもが住んでいる」などが「ストレングスモデル」に基づく生活ニーズ把握なのだとしたら、他のモデルはいったいアセスメントで何を把握しようというのだろう。まったく専門職としての教育を受けていなくても、みのもんたの電話相談だって、このくらいのことは確認すると思うのだが。
 最後は「利用者の主体性の支援の重要性を言った岡村ってやっぱりすばらしい」で終わる。この論文に対する直接の批判にはならないかもしれないが、そろそろソーシャルワーク研究でも素朴に純粋な「主体」を想定することを疑う議論が生じても良いように思う。「自己決定」については、新自由主義の隆盛をきっかけとしてずいぶん疑われるようになったのに、不思議である。無垢な主体の存在を疑えるようになったほうが、文化的社会的影響を的確にアセスメントできるのではないか。そうでないと、岡村理論は「現状肯定的で保守的」という批判にまたもやさらされることになる。岡村理論を擁護する立場なら、そのような批判を招いてしまうことは本意でないだろう。