泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

SW研究の行方

 大学に行って、論文を20本ほどまとめてコピー。休学中もコピーカードが使えるとは思っていなかった。学科の書庫にも入れるし、なんだか休学前と何も変わっていないような気がする。
 大橋謙策(2005)「わが国におけるソーシャルワークの理論化を求めて」『ソーシャルワーク研究』Vol.31 No.1,4-19.
 全体にすごく浅く広い内容で、荒っぽい。編集部から与えられたというテーマが壮大すぎるため仕方ない面もあるが、もし院生の論文としてこれが出されていたら、査読ではさぞかし叩かれるだろう(形式についても、参考文献リストを文末につけずに、書誌情報を本文中でカッコ書きで差し込むなんて完全にルール違反だと思うが、大先生クラスになると許されるのだろうか)。
 実証的な裏づけはともかくとして、「政策研究」と「技術研究」の乖離が進んだ背景として、措置行政やマルクス主義経済学の影響、急速な高齢化に伴うケアワーク実践の発展などを掲げるのはまあよい。1990年以前は「施設福祉=ICIDHベース=医学モデル=訓練・治療・保護=ソーシャルワーク展開されず」、1990年以降は「在宅福祉=ICFベース=生活モデル=自立支援=ソーシャルワークの時代到来」という理解もかなり単純化されていて、実践領域によっては反論があると思うが、それも目をつむろう。
 まず不満なのは、最近の地域福祉研究者に顕著な「地域福祉計画」の過剰な評価である。大橋は、この地域福祉計画が「政策」と「技術」をメゾレベルでつなぐものであるべきだと規範的に言う(この考え方はかなりメジャーになりつつあると思う)。そして大橋は、ソーシャルワーク研究者がこれらの計画化に積極的に参画しなかったことを批判する。
 しかし、地域格差が広がるばかりの現状の中で、現実に策定されている多くの地域福祉計画はとうていそのような期待ができるものではない。計画を策定するのは自治体であり、策定にあたって誰を招き入れるのかを決めるのも自治体である。地方分権化が進んだとはいえ、福祉サービスに関する施策の骨格は国レベルで決まり、自治体がいかに民主的で実証的な計画策定をしても、策定された計画の実現にどれほど努力できるかは自治体ごとの財政状況や政治的な力動によって異なる。国レベルの制度であっても運用実態には極端な開きがあり、制度の創設や運用のカギを握っているのはもっぱら計画というよりも自治体の担当職員の熱意であることを、多くの現場やソーシャルワーク研究者は知っている。現場に近づけば近づくほど、「計画」に対して失望しているのである。そのことを責めるのは酷だ。政策研究者にしてみれば、自治体レベルで民主的な政策提言を具体化するものは今のところ「地域福祉計画」しかないのだろうし、決して間違いではないが、現実の政治というのはもっと多様ではないか。その多様性についての研究が少ないことこそ批判されるべきだ。
 次に、事例研究に基づくEBSW(Evidence Based Social Work)の重要性を言うが、「司法分野での判例研究」「医学分野での症例研究」と同じようにソーシャルワーク事例を扱うのは、もうやめにしてはどうか。その実効性があるくらいなら、もっと事例研究は慣れ親しまれるものになっているだろう。ずっと本文中で「生活問題」について書いているのに、生活問題とそれに対する実践の特性に「医学」や「法学」と同じアプローチで迫れると飛躍できる根拠がわからない(医学モデル批判をしながら、こんなときだけ医学を模範とするのもどういうことか。)
 そして、唐突に出てくる中根千枝『タテ社会の人間関係』と阿部謹也『世間体の社会学』。日本文化の固有性に応じたソーシャルワークの必要もさんざん言われてきたが、ソーシャルワーク研究者に聞いてみたいのは、欧米のソーシャルワーク理論というのは、対象認識において文化や規範をそんなに無視した実践を導いているのか、ということである(コミュニティワークに関して言えば、主体的な住民像が前提とされているということが言えるかもしれないが、それならばソーシャルワーク一般で語るべきではない)。日本文化が全国一様であるわけでもないのと同様に、諸外国にも多様な文化とそれに影響される人々の生活があろう。重要なのは日本的なソーシャルワーク理論を打ち立てることではなく、支援を必要とする人々を取り巻く環境の文化的拘束性をも包括的に把握できるジェネリックなアプローチの確立ではないか。この単純さは、論文タイトルを「日本における」ではなく「わが国における」としてしまうあたりの鈍感さともつながっているように思う。
 なんてことを考えながら事務所に帰り、学生スタッフらと長期休暇中の活動マニュアルの内容を議論。マニュアル化の弊害は怖いが、自分の頭で考えるべき部分とうまく棲み分けられれば、きっと有益だろう。