泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

社会福祉研究の壁

 鬼崎信好(2005)「社会福祉学研究の動向と展望」『社会福祉研究』第92号,91-95.
 なんだかここで書かれているのと同じようなことがもうずいぶん長い間言われてきているような気がするのだが、全く前進していないように思えてならない。そして、10年後も20年後も同じことを言っていそうな予感がしてならない。要約してしまえば、「社会福祉学が成立するには固有の研究方法が必要だ」「社会福祉学は総合科学を目指すのだ」「社会福祉学には思想や価値が大事だ」。
 そして、社会学に対するアレルギーも相変わらず。「社会学のように批判ばかりしていても仕方ない」「社会学者は知的好奇心を満たすためだけに研究をしている」「だから社会福祉学は、社会学では肩代わりできない」云々。もう何度、こんな話を聞いただろう。
 そして、「総合科学」としての「社会福祉学」を提唱する古川孝順が(おそらく「理想的な研究」をする者として)紹介されるわけだが、いつも不思議に思うのは、この人の「生活システム」の考え方なんて、明確に社会学の社会システム論に拠っている(それもかなり古典的なもの。妥当な援用であるかどうかはおいておく)。しかし、彼は執筆物の中でそうしたことを明示しない。ゆえに、多くの人々が「ほら、社会福祉学にだってすぐれた理論家はいるのだ」と考えてしまうとしたら、不幸である。このあたりの「総合科学」提唱のうさんくささについては、以前の同誌でも論争があったが、その後の議論はどうなったのだろう。同じ92号の116ページでは、米本秀仁さんが古川著『社会福祉学の方法』を書評している。刺激的な書き方は避けているし、「本書を熟読玩味することを勧めたい」とも書いているが、内容的には完膚なきまで叩きのめしている。米本さんのほうが一枚も二枚も上手だ。
 要は「総合」を叫ぶ人々の多くが、(社会)科学一般についての学習をほとんど積んでいないのである。その点では、若手もベテランも同じ。社会福祉実践の固有性を「価値」に求め、それをそのまま社会福祉学の固有性の根拠としてスライドさせるという安易さからもいつになれば脱却できるのだろうか。