泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「概念」についてのメモ

http://d.hatena.ne.jp/jasmine156/20050601
 コメント欄で教授するほどの自信も確信もないので、自分のブログにあくまで自分の頭を整理するために書いてみる。
 自然科学はもちろん、社会科学においても概念定義の重要性が否定されることはまずないだろうと思う。物理学であれ、経済学であれ、法学であれ、重要な語句の意味については研究者間で一定の合意がなされる。合意がなければ、研究者間の対話はかなりの労力を必要とするはずだ。
 ところが、学問分野によってはこの合意形成の度合いに違いがある。たとえば社会学には多くの基礎概念があるが、経済学との比較において宮台真司は「M式社会学入門」の第1回「社会とは何か」において、こう書いた。

社会学の基礎概念を幾つか取り上げて説明することが、連載の目的です。本誌の連載群のように、ビジネス雑誌などに経済学の基礎概念について説明する記事が載ることは、珍しくありません。ですが、社会学について同じことがなされることは、滅多にありません。
■なぜでしょうか。社会学の基礎概念とは何なのかについて、必ずしも合意がないからです。基礎概念についての合意がないので、基礎概念を用いないで書かれた、社会学を自称する論文が、量産されています。これは学問としては、きわめて奇妙な事態だと言えます。
■基礎概念について合意がないのは、なぜなのか。社会学という学問の目的について、合意がないからです。経済学の説明対象は、言うまでもなく「価格」です。社会学の説明対象とは何なのでしょうか。しばしば「行為」であると言われてきましたが、どうでしょう。…

 これに似た事態は、「社会福祉学」と呼ばれる分野にも存在する。社会福祉研究の説明対象が何であるか、についての合意はない。「社会福祉」「ソーシャルワーク」「介護」等の定義についても、「社会福祉学」業界で一致した見解はない。こうした書き方をすると、社会福祉学者からの反発は必至である。もちろん「福祉辞典」「福祉用語辞典」などと呼ばれるものを見れば、そこには何らかの説明がある。しかし、それに研究者みんなが合意しているわけでもない。多くの場合、執筆者の考えが色濃く反映されている。大学の講義で教授が概念定義を披露したとしても、それは特定の個人や団体による定義でしかない。
 社会学の場合、グランドセオリーが強い影響力を持っていた時代があったようなので、基礎概念は「昔よりも重視されなくなった」と言えるのかもしれない。社会福祉学の場合はどうか。社会福祉学にもそのレベルはどうあれ、特定の概念図式が議論の中心となった時代はあった。最近の大学ではあまり教えられないかもしれないけれど、たとえば岡村重夫は社会学、孝橋正一はマルクス経済学を基礎として「社会福祉とは何か」を考えたから、概念図式はそれらの学問理論にある程度は準じている。ところが、近年は「社会福祉とは何か」というような、深遠な議論はほとんどなされない。細分化されたテーマに関する実証研究が圧倒的に多くなり、そこで必要とされるのは、せいぜい先行研究をレビューして、自分の調査研究の成果を発表する際に、周囲から批判されない範囲での概念定義をするぐらいのことである。これでは、基礎概念についての合意形成は期待できそうにない。
 この意味で「社会福祉学」における「介護」の概念定義が他分野よりも優れているということは言えない。もし優れているように見えるとすれば、それは特定の視点(とりわけ「実践現場に関与する者の視点」ということになろう)から見たときに、なんとなく腑に落ちやすいというだけである(つい「なんとなく」とつけてしまうのは、社会福祉学の概念図式の曖昧さに対する自分の強い不満から来ている)。「介護」概念ひとつをとっても、経済学的な定義、社会学的な定義、法学的な定義、心理学的な定義は、それぞれ異なるだろう。ある程度まで日常語と意味的に乖離していても、「学術研究の成果物としては」という限定つきで、それはそれでよいと思う(ただ、成果物を公表する際の目的に応じては、工夫が必要だろう)。ただ問題は、それらの説明が本当にそれぞれの学問的な前提に基づいてなされているか、ということである。この点で「介護」概念に関する社会学的な定義は十分でないと思っている。前に引用したような社会学の事情にもよるのだろう。
 ならば、概念の「社会福祉学的な定義」とは何か。これが最大の難問である。これを示すことができなければ、「社会福祉学」の学としての固有性は言えなくなる。ここで自分自身の立場表明をしてしまえば、自分は「社会福祉学」の存在に懐疑的である。この理由はいずれまた書く。
 なお「断定的に語ること」については、社会科学における「理念型」とか「モデル」に関わる問題ではないかと思う。断定的に語られるからこそ、それとの偏差によって事象を説明できると考えれば、有意義なのではないか。ただ、書き手がそういった目的意識を持っているかどうかはわからないけれど。