泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

ソーシャルワークと社会理論

 第一章「ソーシャルワークにおける日常性」再読。

日常性とソーシャルワーク (SEKAISHISO SEMINAR)

日常性とソーシャルワーク (SEKAISHISO SEMINAR)

 以前読んだはずだけれど、完全に内容を忘れている。
 加茂さんは、ソーシャルワークにおける社会理論の重要性を唱える数少ない論者として、貴重な存在だと思う。社会福祉分野において抽象度の高い話は、現場はもちろん、研究者にさえ嫌われる。多くの人は具体的な話こそ実践的だと信じているから、抽象的と判断するやいなや役に立たないと退ける。ソーシャルワーク理論と呼ばれるものは数多くあれど、それらを体系的に学んで実践に生かすという習慣はほとんどの福祉現場に根付いていない。相談援助の法制化の弱さもあいまって「ソーシャルワークって、勉強しても役に立つのか」あるいは「どこで役立てるのか」という疑問が強く抱かれている。しかし、ソーシャルワーカーの権威性が指摘されるようになり、「客観性」への信仰が陰りを見せている昨今、「何を『問題』として把握すべきか」「『問題』が生まれるメカニズムは何か」「『問題』はどのような方法で把握すべきか」「『問題』はどのようにして変容させられるか」などの命題群に向き合うならば、抽象的な理論を避けて通ることはできそうもない。
 その意味で、こうした本はちまちまとした実証研究よりもずっと実践的だと思う。ただ、本書のこの章に対して思うのは、自らの主張を実践現場や研究者に受け入れてもらおうとするならば、①理論的前提をもうちょっと丁寧に説明してはどうか②もうちょっと読みやすさに配慮してはどうか。
 全体に「みんなこのぐらい知っていて当たり前なんだ」という嫌味としか思えない記述が多すぎる。サルトルから引用して、注で「説明するまでもなくサルトルの『嘔吐』の引用である」というのは、多くの読み手を不快にさせるだろう(まさか本当に「説明するまでもない」とは思っていないだろう)。社会学や哲学では慣れ親しまれている用語を、何の解説もなしにばんばん使うのも、読者を置いてけぼりにするだけである。「認識論」「存在論」などは最近になって少しは社会福祉研究業界でもなじまれてきた感があるが、「企投」「被投性」「ゲシュタルト」「地と図」「語用論」等に何の説明もないのは不親切だと思う。それでも、これらの語群を用いたいならば、ソーシャルワークにおける社会理論の必要性うんぬんを言うよりも、「社会福祉に関わる者が人文社会科学における基礎教養を身につける必要性」を叫ぶべきではないか。
 表現ももっと平易にできると思う。理論的な厳密さを大切にしようとすれば限界はあるだろうが、何も現象学の用語を使ったりしなくても、多くの研究者がちょっとずつなじみつつある社会構成主義に関する用語や議論の紹介でも、十分に説明できることばかりだ。2003年の書き下ろしならば、きっとできただろう。
 かんじんの内容については、さほど批判するところも今のところないけれど、強いて言えば、①日常性に対する「非日常性」について全く言及がないから、ソーシャルワークが関与しない領域がはっきりしない。②日常性の硬直的制度化が現実を空洞化させて、異質な現実構成法を排除する力を失い、システムの揺らぎが開始する、というのは楽観的ではないか。多くの人がその根拠を説明できないルールに従っているのは、流動性に耐えられないからでもあるのではないか。根拠を問い返すことで、既存のルールを簡単に放棄しようとするだろうか。
 全体の内容を踏まえてから書け、と言われればそれまでだけど。