泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

格差社会と介護サービス

 少し早めに帰宅したので、NHK「どう思いますか格差社会」を途中から見る。発言者はどんな立場でもまず「セーフティネットは必要だと思いますけど」と言っておくことが、一応のマナーのようだった。一部の論者は真剣にそう思っているようには見えないと言ったら、うがった見方だろうか。
 自分は高校→大学→大学院→NPO立ち上げという流れをたどってきた。仕事をはじめてからはともかく、それ以前に出会った人から「経済的にひどく困窮している」という話を聞くことはほとんどなかった。普通に私立大学に入学し、卒業後に普通に就職して、という暮らしをしていると、さほどの格差は実感しないで済む。人の家の年収なんて、聞く機会もない。そこまで個人の暮らしの深いところに切り込む話なんて、誰といつできるだろう。
 番組中で「今の日本で飢え死にする人なんていないでしょ」「そんなことはない」というやりとりもあったが、「無知」とか「想像力の無さ」を単純に笑うことはできない。他人の生活状況など全く見なくても、この社会では暮らしていくことはできる。仕事を通じて商品やサービスを他人に提供していても、ひとつの仕事をしながら見ることのできる他人の生活というのは、極めて限られた部分でしかない。消費者の側からすれば、さまざまな商品やサービスを自分なりに組み合わせて生活を組み立てていけることこそが、生活の自由を拡大できるということだったのだから。他人の生活全体に対する想像力が持てないというのは、その裏返しだ。
 社会福祉実践は「生活の全体性」を踏まえた実践を行うべき、ということがずいぶんと昔から言われてきた。それこそがこの分野の「固有性」であるとも言われてきた。それでも介護(介助)を提供する事業者から見えるものの範囲は、利用者が介護を生活の中にどう位置づけて活用するか、によって変わってくる。週末の移動介護の利用について、利用者家族の生活を根掘り葉掘り聞く必要もない。「介護だって、生活の全体性を踏まえるべき」という反論があるかもしれないが、考えてもみてほしい。自分の暮らしのすべてを知ってもらわなければ、支援が受けられない、という状態を私たちはいつでも望むだろうか。支援の結果として生活の深いところが見えてくることはあったとしても、それをいつでもサービス提供の前提とするわけではない*1
 生活の全体を見渡すことが積極的に望まれるのは、生活問題が複合化した場合である*2。適切に介護を提供することで、それを予防できることもある。その意味で言えば、自分たちのやっている「介護」の仕事は、格差を実感しないで済むほうが健全なのかもしれない。
 「介護職」「福祉職」の多くは、自由主義経済の立場からの「格差容認」に冷たい視線を向けるし、それができる立場であることを誇りに思いたいはずだ。自分もそう思っているし、自然なことだと思う。それでも自分たちが本当に格差を見つめられているのか、また見つめられる立場にあるのかどうかにも自省的でありたい。なんだかまとまりのない話になってしまった・・・。

*1:これは「介護システム」が、社会における医療・教育などのサブシステムと同レベルに並ぶものなのか、という議論につながっていくのだろうと思う。また介護事業者における「個別支援計画」作成の必要性に異論を唱える根拠となりうるだろう。

*2:この点で、「社会福祉実践」と「介護実践」は理念型として区別されるべきだと思う。