泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

資格の機能?

 立岩さんのサイトより、
http://www.arsvi.com/0w/ts01/1998r04.htm
http://www.arsvi.com/0w/ts02/2002020.htm

 第一に、資格は供給されるサービスの品質管理のために必要なだけである。消費者が自分自身でその質を確かめ選ぶことができるのであれば、わざわざ他の人が資格を作ったりする必要もない。人々が不要なもの有害なものを選ばないなら、その結果それらは消え去っていくだろう。しかし、それがうまくいく場合だけではない。例えばその薬を使ってからその害がわかったのだが、そのときにはもう遅く、死んでしまったということがある。こうした可能性があるときには事前に質を確保しておく必要がある。サービスを提供する人についてその一つの方法としてあるのが、この人に仕事をさせても大丈夫かどうか試し、大丈夫な人だけに仕事をさせるというやり方である。
 第二に、しかし資格は別の利害のもとで用いられうるし、実際に使われてきた。それは、自分たちの権益を保持し、拡大するのに役に立つ。新規参入者を制限することができれば、仕事が確保でき、その価格、収入を維持することまた高めることができる。また、別の流派・流儀の人々を仕事から排除することもできる。
 まず資格にはこの二面がある。資格化することが専門性を証明したり高めたりすることに自動的につながり、自明によいことのように思う人たちが少なからずいるのだが、そんなことはない。

 今日は朝からいろいろとあったのだが、ショックだったのは(これまでも十分わかってはいたつもりだったのだけれど)ボランティア活動で8年+常勤のガイドヘルパーで2年の経験を積んできた者よりも、たかだか専門学校に2年通って介護福祉士資格を取得しているだけの者のほうが、「責任ある役職にふさわしい」という行政判断に直面したこと。
 福祉施設の職員もどんどん介護系資格の取得が求められるようになり、無資格者は肩身の狭い思いをするようになりつつある。これらの介護系資格の内容は高齢者介護を想定したもので、はっきりいって障害者の支援には大して役立たない。一方で、4年制大学の社会福祉学部等で取得できる社会福祉士(の受験)資格は、取得してもほとんど役に立たない資格になっており、学生が卒業後に居宅介護の事業所で働きたいと思うのならば、即座に介護系資格を取得してもらわなければ仕事がさせられない。無資格で動かせば、事業者指定の取消しが待っている。介護の現場で働きたい学生には、在学中に介護系資格の取得を薦めたい。その方がはるかに就職には有利である。
 ただ、障害者の支援をやっている事業所なら、こうした現状をくだらないと思っている人が少なからずいると思う。現場の実感として言えば、支援の優劣は資格の有無とは全く関係ない。どんな形であれ、障害をもつ人とどれだけ真摯に向き合う経験を積んできたか、が支援の質と関わっているのは明らかだ。
 個別性の高い支援が求められるほど、支援のマニュアル化は難しくなる。「一般的にこうすればいいと言われている」という知識は役に立ちにくい。だとすれば、優れた支援の質を担保させるものが資格だとは考えがたい。
 にもかかわらず、これほどまでに障害者支援で「要資格化」の流れが顕著なのは、立岩さんのいう2つの理由に加えて、「重度の障害者支援に必要な財源を確保したい」→「財務省に支援の大変さを訴えなければならない」→「大変な支援であることを伝えるには、取得が難しい資格をもっていることを条件にするしかない」という発想があると聞く。このとき「資格」の機能は、サービス利用者にとっての「品質管理」でもなければ、サービス供給者にとっての「既得権の保持拡大」でもない。予算の配分に関与する第三者の「説得」のための材料である。「行動援護類型」の導入はその典型例であったと思われる。
 こうした流れに乗るのか乗らないのか、が障害者運動には問われており、正論としては利用者だって事業者だって乗れるはずもないわけだが、乗らなければもっとひどい状況になると言われたらどうか。何を大事にしたいか、で判断が分かれるのだろう。厳しい選択を迫られている。